
◆クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル
(Klemens Wilhelm Jacob Meckel)
プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。ケルンに生まれる。実家のメッケル家はビール醸造家であった。メッケル家はドイツ南西部ラインラント=プファルツ州ビットブルク=プリュム郡ビットブルク・ラントの山間の村メッケルが発祥の地で、当地にやって来たローマ帝国の小部隊の隊長が始祖であったという。1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業した。普仏戦争にも参加し、鉄十字勲章も受賞した。
陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。日本からの度重なる派遣要請に対し、当時フランスが日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じる。ドイツ側は参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校の兵学教官のメッケル少佐[1]の派遣を決定し、メッケルは1885年3月に来日した。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであった。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。だがヒンデンブルクまでも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と折れた。ワインの件は、横浜でモーゼルワインが入手できることを知って訪日を決意したという。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。
日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
メッケルは陸軍大学校で「自分がドイツ軍師団を率いれば、日本軍など楽に撃破出来る」と豪語した。この言葉に学生のひとり根津一は反発し、その後の講義はメッケルと根津の論争の場になってしまった。メッケルは「自分は政府命令で来ているのだ、学生如きの侮辱は許さん」と帰国する勢いであった。仲裁に入った陸軍大学校幹事・岡本兵四郎にメッケルは「根津の如きは到底文明国の参謀に適せず」と述べ、結局根津は諭旨退学となっている。メッケルの豪語は学生を鼓舞するもので民族的偏見によるものではなかったが、帝国主義世界では新興国であるドイツ人と近代化を急いでいた日本人のプライドがぶつかりあったのだった。実際、後に根津はメッケルを評して日本陸軍の恩人とし日清戦争・日露戦争での勝利の要因にメッケルの指導をあげている。
また児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。彼のような英才がもう2、3人あったならば……」と評価していた。3年間日本に滞在した後、1888年3月にドイツへ帰国。帰国後はマインツのナッサウ歩兵第2連隊長、参謀本部戦史部長、陸軍大学校教官などを経て1894年に陸軍少将へ昇進し、1895年には参謀本部次長となったが、皇帝ヴィルヘルム2世への受けはよくなく、1896年、プロイセン貴族への授爵が却下され、ポーゼン州グネーゼンの第8歩兵旅団長に左遷される辞令を受けた直後に依願退役。帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には満州軍総参謀長に任命された児玉宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っている。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。
1906年、ベルリンにて64歳で死去した。退役後に連隊長時代の部下の元妻と結婚し、日本陸軍から派遣されてくる留学生に個人授業を行ったほか、音楽に親しみ、オペラも作曲した。
