
◆元老院議官
元老院は、明治初期(1875年 – 1890年)の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。元老院議官は、元老院を組織した議員。華族・官吏・学識者の中から勅任された。明治後期以降、天皇の諮問を受けて首相推奏を行った元老との直接の関係はない。元老院は1890年に帝国議会開設に伴って廃止されたが、廃止時の元老院議官定員91名のうち、27名が貴族院の勅選議員になり、引き続き立法機関を構成した。
◆津田 真道
日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリングに学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にライデンのフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。明治2年(1869年)、人身売買禁止を建議。明治4年(1871年)、外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。明治23年(1890年)には、第1回衆議院議員総選挙に東京8区から立候補して当選、大成会に属して初代衆議院副議長に就任。同年10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた。明治24年(1891年)12月17日に商法及び商法施行条例の一部施行に関する法律案の第三読会開催案が可否同数になると、衆議院副議長として日本政治史上初の国会の議長決裁を行い、消極的に決した(否決)。明治29年(1896年)に勅選貴族院議員となる。男爵、法学博士。1903年死去。
◆黒田 清綱
幕末の薩摩藩士。明治期期の官吏・歌人・正二位・勲一等・子爵。薩摩藩士黒田清直の嫡男。母はお守(小倉氏)。通称は新太郎・嘉右衛門・嘉納。雅号は滝園。庶子に黒田清秀・養嗣子に黒田清輝(弟の実子)。同じ薩摩藩出身の黒田清隆との直接の血縁は無い。藩校造士館で学んだ後、藩主島津斉彬に気に入られて史館に入る。また、国学者・歌人である八田知紀に和歌を学ぶ。また、西郷隆盛とも親交が厚かった。後に軍賦役となる。1866年(慶応2年)の江戸幕府による第二次長州征伐の際、大宰府に流されていた五卿(七卿落ちの後病死した錦小路頼徳と逃亡中の澤宣嘉を除いた5名)を大坂に連行しようとするが、4月に藩命を受けて五卿の移送の阻止に大宰府に向かった黒田は幕府の使者である監察小林甚六郎と直談判して移送を中止させた。その後、10月に藩の正使として長州藩主毛利敬親と会談した。その後、京都・大坂に滞在し、戊辰戦争の際には山陰道鎮撫総督参謀として総督西園寺公望を補佐した。その後、鹿児島藩参政として伊地知正治とともに藩政改革に努め、1870年(明治3年)に明治政府に召され、弾正少弼として稲田騒動の鎮圧を図り、次いで東京府大参事として川路利良とともに警察制度の設立に参画した。後に教部少輔・文部少輔に転じる。西南戦争の際には島津久光に西郷の助命嘆願を行い、西郷の死後も三条実美らに名誉回復を進言した。1875年(明治8年)に元老院議官を経て、華族令公布後の1887年(明治20年)5月24日、子爵に叙せられる。1890年(明治23年)に貴族院議員に任ぜられて1期務める。同年10月20日、錦鶏間祗候となる。1900年(明治33年)に枢密顧問官に任じられた。同門の高崎正風の没後は明治・大正両天皇の和歌の指導にあたった。また、麹町に滝園社を建てて歌集「庭たつみ」を刊行して門人を育てた。実子・清秀がいたが、庶子であるのを憚って家督を養子としていた甥の清輝に譲った。だが、清輝は留学中に西洋画を志して明治を代表する洋画家となったため、滝園社は清秀が継承した。墓所は東京都港区の長谷寺にある。
◆斎藤 利行
幕末の土佐藩家老。明治政府に出仕して刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。旧名は渡辺 弥久馬(わたなべ やくま)。同藩士・斎藤利成の子。若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから1843年(天保14年)に反対派によって失脚させられる。後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間には仕置役・家老となる。1867年(慶応3年)に長崎で起きた土佐藩士によるイギリス水兵殺害事件では、後藤象二郎とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した他、佐々木高行とともに坂本龍馬とも結んで武器調達に活躍した。明治維新後は「斎藤利行」と改名し、1870年(明治3年)に刑部大輔、続いて参議として新政府の中枢にあって新律綱領編纂にあたるが、翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から全参議の辞任に伴って職を辞した。その後、病気のために一時帰郷していたが、板垣退助が明治六年政変(征韓論政変)で下野して自由民権運動を起こすために立志社を結成すると、佐々木の依頼によって原轍とともに高知の反板垣勢力の結集にあたった。しかし、前者は一定の成果を上げたものの、結果的に旧佐幕派勢力の復権を招き、佐々木・斎藤も板垣と同類(新政府を作った裏切者)として糾弾された。1874年(明治7年)に宮内省に出仕し、翌年には元老院議官に任じられて海上裁判所設置に尽力するが、1881年(明治14年)に肺病に倒れ、勲二等旭日重光章を授与されるが、間もなく死去した。墓所は青山霊園にある。
◆中島 信行
日本の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹の中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。少年期に耕余塾へ通う。武市半平太の土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。維新後は新政府に出仕した。1880年10月12日、13日に上野精養軒の敷地内で開かれた、日本初の野外耶蘇教大説教会(キリスト教野外大集会)で中島は、心を動かされキリスト教へ求道を始める。さらに、同志社の創設者新島襄に出会い、「いくら政治上で自由とか民権だとか唱えても人間は罪の奴隷である限り、それは空しいことだ、聖書の中にも『真理はあなたたちを自由にする』と書いてあるように、日本人を自由の民としたいなら、まずあなた自らキリストを信じて罪の問題を解決し自由独立の人とならなければならない」と忠告を受け、信仰を持つ決断をし、1886年に一番町教会で植村正久牧師より洗礼を受けて熱心なクリスチャンになった。外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選。第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。その後は1892年にイタリア駐箚特命全権公使、1894年には貴族院議員に勅選。1896年6月5日、維新の功により男爵を叙爵。1899年、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。54歳没。墓所は大磯の大運寺にある。
◆水本 成美
幕末から明治期の薩摩藩士、律令学者、法制官僚。元老院議官。字・君之、号・樹堂、通称・保太郎。明治初期法曹界の卓越した律令学者であり復古的法学派の総帥[1]。江戸二本榎で生まれる。西島蘭渓、松崎慊堂から指導を受け、さらに昌平坂学問所で学ぶ。文久3年(1863年)薩摩藩から招聘され、慶応3年(1867年)夏に鹿児島に移り、重野安繹、今藤君容らと藩律改修に取り組む。明治維新後、新政府に出仕し明治元年9月25日(1868年11月9日)徴士・議政官史官となり、同年10月25日(12月8日)明律取調を命ぜられた。その後東京に移り、明治2年1月19日(1869年3月1日)昌平学校教授に就任。以後、昌平学校一等教授、大学校一等教授、大学大博士、刑部大判事などを歴任。明治2年3月20日(1869年5月1日)刑律取調を命ぜられ、村田保、鶴田皓、長野文炳、邨岡良弼等の補佐を受け、新律綱領を編纂した。1876年4月8日、元老院議官に就任。訴訟法取調委員、民法編纂委員、海上裁判所訴訟規則審査委員、海上裁判所聴訟規則審査委員を務め、1881年10月31日、参事院議官となる。参事院では法制部長となり、諸法律の調査立案を担当した。
◆津田 出
幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。明治新政府に先駆けて紀州藩藩政を改革して徴兵制を施行するなど、テストケースとして廃藩置県及び徴兵令に影響を与えた。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。家禄300石の布衣以上の頭役の父・信徳(三郎右衛門)の長男として紀州藩(現在の和歌山県和歌山市)で生まれる。弟は初代和歌山県知事の正臣。
◆大久保 一翁
幕末から明治時代にかけての幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。頭角を現す。文化14年(1817年)11月29日、旗本の大久保忠尚の子として生まれる。第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、天保13年(1842年)に家督を相続する。老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。その後も意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。この頃、幕閣では第13代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で対立があり、安政3年(1857年)の阿部正弘没後に大老となった井伊直弼が始めた一橋派の弾圧である安政の大獄で、忠寛は直弼から京都における志士の逮捕を命じられた。しかし忠寛は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼の厳しすぎる処分に反対した。このため、直弼に疎まれるようになっていく。そして忠寛の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛は、この部下を厳重に処罰したが、これが直弼から志士の逮捕を怠っているととられ奉行職を罷免させられた。桜田門外の変後の文久元年(1861年)、幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。そして外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案している。第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した(江戸開城)。その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。明治政府では東京府の第5代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力した。明治21年(1888年)7月31日に死去。享年72。
◆河野 敏鎌
日本の政治家。栄典は勲一等子爵。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。天保15年(1844年)10月、土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生まれる。安政5年(1858年)3月、江戸へ遊学して安井息軒の門下となり、文久元年(1861年)に帰国。土佐勤王党に加入して武市半平太や坂本龍馬らと交友関係を持つ。文久2年(1862年)、五十人組に参加し京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。ところが文久3年(1863年)に藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、このため投獄され6年間の獄中生活を送る。その際、厳しい拷問にも耐えて同志を守り通したと伝えられる。永牢の宣告を受けたが、河野は逆にこれを誇りにしたという。慶応4年(1868)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、罪を免じられて出獄。同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、江藤新平の知遇を得る。明治2年(1869年)4月に侍詔局出仕、のちに広島県大参事、司法大丞兼大検事となる。明治7年(1874年)の佐賀の乱では大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。乱後の裁判ではかつての上司であった江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。巷では大久保が金千円で敏鎌を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、敏鎌自身は晩年になって立憲改進党掌事の牟田口元学に自身の行動に関する弁明を試みている。明治8年(1875年)に元老院議官、明治11年(1878年)には元老院副議長となる。明治13年(1880年)、文部卿として教育令改正の推進した。明治14年(1881年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で大隈重信らに同調して下野した。明治15年(1882年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。明治21年(1888年)に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立した。明治26年(1893年)10月30日、子爵を叙爵して華族に列すが、明治28年(1895年)4月24日に死去、享年52。墓所は東京都港区の青山墓地にある。
◆楠田 英世
日本の武士、官僚。第一次新潟県知事、元老院議官、男爵。通称は十佐衛門、十助。肥前佐賀藩に生まれる。明治元年(1868年)、会津戦争で仁和寺宮嘉彰親王の副参謀となる。明治2年2月22日(1869年4月3日)から同年7月27日(9月3日)まで新潟県知事を務めた。その後、大学少丞、同大丞、大史、司法少判事、制度御用兼勤、司法中判事などを経て、明治4年5月11日(1871年6月28日)、明法権頭になる。その後、司法大丞、司法大検事を兼任し、江藤新平や箕作麟祥らとともに民法会議に出席し旧民法の編纂に従事した。その後、司法省三等出仕、兼明法頭、法制課長、左院御用掛などを歴任。1876年(明治9年)4月8日より1884年(明治17年)4月30日まで元老院議官を務める。この間、訴訟法取調委員、民法編纂委員などを務め、1881年(明治14年)7月27日、登記法取調掛委員長に就任。明治39年(1906年)、死去。享年76。
◆有栖川宮熾仁親王
江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。
◆佐野 常民
日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。
◆柳原 前光
幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家21代当主。大正天皇の伯父。議奏・権中納言正二位柳原光愛の子として京都に誕生。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では18歳で東海道鎮撫副総督となる。同年3月には旧幕府領であった甲斐国へ入国し、甲府城で職制を定め、11月まで城代を廃し甲府鎮撫使を務めている。明治維新後は外務省に入省、明治4年(1871年)に外務大丞として大蔵卿・伊達宗城と共に清へ渡り李鴻章との間で日清修好条規を締結する。西南戦争では勅使として鹿児島入りし島津忠義・珍彦と会見している。その後元老院議官となり刑法・治罪法審議に従事し、駐露公使・賞勲局総裁・元老院議長を務める。1890年(明治23年)7月、貴族院伯爵議員に就任したが、同年11月18日、枢密顧問官となって、同年11月25日に貴族院議員を辞任した。皇室典範の制定に関与したが、明治27年(1894年)に44歳で死去。家督は正室初子との間の長男・義光が継いだ。明治天皇の側室で大正天皇の生母の柳原愛子は妹である。白蓮事件で知られる歌人の柳原燁子(白蓮)は次女(妾で幕臣新見正興の娘である芸者“りょう”との間の子)である。また、長女の信子は入江為守子爵に嫁いだため、大甥にあたる昭和天皇の侍従長でエッセイストとしても有名な入江相政は前光の孫にあたる。
◆大給 恒
江戸時代後期の大名。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(竜岡藩)主。奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。天保10年11月13日(1839年12月18日)、奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として誕生。幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永5年3月8日(1852年4月26日)、父の隠居により家督を継いだ。6月(7月)には竹橋御門番に任じられた。嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。11月(12月)に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。万延元年(1860年)には日光祭礼奉行を務めた。文久3年1月(1863年2月)に大番頭に任じられ、8月(9月)に若年寄に任じられた。9月11日(10月23日)、藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の長野県佐久市田口)に移転し、新たに星形要塞である龍岡城を建設した。その後は幕政に参与したが、元治元年6月(1864年7月)に開港問題などで松平慶永と対立して若年寄職を罷免された。慶応元年4月(1865年5月)、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月(6月)には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月(8月)に若年寄次席、12月(1866年1月)には若年寄となり、慶応2年6月(1866年7月)には老中に栄進し、10月(11月)からは朝廷との交渉役を務めている。11月(12月)に正四位下に昇叙し、12月(1867年1月)には陸軍総裁に任じられた。この間、藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成する一方で、殖産興業や蚕種・生糸の増産など国力の増強にも努めている。慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任し、2月(3月)には老中職も辞任した。そして幕府との訣別を表明するため、大給と改姓した上で信濃に帰国し、3月(4月)には上洛して新政府に帰順する意思を表明したが、新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じた。4月(5月)には新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵し、このため5月に謹慎処分を解かれた。5月28日(7月17日)に藩名を竜岡藩と改名する。のちに維新の戦功として賞典金2000両を下賜された。
◆田中 不二麿
日本の幕末・明治期の武士、官僚、政治家。位階爵位は正二位勲一等子爵。号は夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。明六社会員。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。尾張国名古屋城下に尾張藩士の子として生まれ、長じて藩校・明倫堂で和漢古典を学ぶうちに勤皇思想に心酔した。成績優秀につき藩参与に取り立てられる。時あたかも幕末の動乱期であり、佐幕か尊王攘夷かで尾張藩も意見が二分したが、尊攘派の「金鉄組」に属した。徳川御三家という、藩論を論ずるにあたり大変な神経を使う藩情にも関わらず、尊皇攘夷の大道を説き続け、同僚の丹羽賢、中村修(後の名古屋市長)らとともに尊皇攘夷建白書を家老ほか藩内要職者に提出。また京に足を運び彼地の尊皇攘夷論者と頻繁に接触した。青松葉事件以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となって藩論の統一に尽力し、一躍藩の内外にその名を知られるようになる。慶応3年(1867年)、王政復古の大号令を受けて参与に任命、同日の小御所会議に尾張藩代表として出席した。慶応4年(1868年)正月、官軍に徴士。翌年、大学御用掛を拝命し、教育行政に携わるようになる。明治3年(1870年)、阿波国で稲田騒動勃発すると、特命を受けて現地に急行。関係者聴取の上で短日月の内に報告書を上程し、迅速な騒動鎮定に大いに寄与した。明治4年(1871年)10月、文部大丞になる。岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞する。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。明治7年(1874年)、文部大輔となる。外務卿・陸奥宗光と共に、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待し、近代日墨国交の端緒を開く。1876年、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米し、アメリカ各州の教育行政の調査を実施した。明治12年(1879年)、教育令を建白。学制が廃され同令が施行される。教育令は学制にある画一的なあるいは民生圧迫的な側面を退けて、アメリカ式の地方主体の自由主義教育を基調としたもので、6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど画期的なもので親や町村の教育負担を著しく軽減した。一方において、音楽取調掛を設け、伊沢修二らを欧米に派遣し『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』等のドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に音楽教育の近代化を図り、あるいは伊沢と共に体操伝習所を設置し近代体育教育を導入なおかつ日本人身体の科学的調査を行ない、また女子校や幼稚園の開設に関与した。しかしながら、未就学児の増加ならびにいわゆる学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり、翌明治13年(1880年)、司法卿に配置換えとなる。以後は教育行政から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて明治24年(1891年)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け第1次松方内閣の司法大臣を拝命。後、位階正二位に任ぜられ子爵を授与される。明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会副委員長に就任した。明治42年(1909年)、目白の自宅において65歳で没。子に地質学者・田中阿歌麿(あかまろ)、孫に経済地理学者の田中薫がいる。
◆伊丹 重賢
日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。京都(山城国)粟田生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。その後1890年(明治23年)9月29日に貴族院議員に勅選され、同年10月20日、錦鶏間祗候となる。1896年(明治29年)6月5日、これらの勲功により華族に列して男爵を授けられる。1900年(明治33年)に卒去、享年71。従五位に昇叙。勲一等瑞宝章を受章した。
◆河田 景与
日本の武士(鳥取藩士)、政治家。幕末期に尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。名(諱)は初め祺景。通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。号は研田。爵位は子爵。文政11年(1828年)、鳥取藩士・河田介景の子として生まれる。弟に景福がいる。河田家は代々鳥取藩の伏見留守居役を務める家であり、嘉永4年(1851年)に家督を継ぎ、伏見留守居となる。若い頃から一刀流剣術を学び、さらに大石進種昌に入門し大石神影流をも学んだ。に、尊王攘夷思想に傾注し、同藩の尊王攘夷派勢力の中心人物となった。文久3年(1863年)には京都留守居も兼務。長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)らと交流し、尊王攘夷運動に関与する。鳥取藩主・池田慶徳は、尊攘派の巨魁であった水戸藩主・徳川斉昭の五男であり、藩論も概ね尊攘派に傾いていた。この頃、京都に集結していた尊攘派の志士は、真木和泉らが計画する攘夷親征・大和行幸を主張し、朝廷内の過激公卿である三条実美らと連携して活動していた。しかし、幕府を信認する孝明天皇はこうした尊攘過激派の行動を快く思わず、その意を受けた薩摩藩士・高崎正風、中川宮朝彦親王らの画策により、薩摩藩・会津藩の兵力を背景に八月十八日の政変が起こされ、長州藩および三条ら尊攘派公卿は京都から一掃される。一方、鳥取藩内でも河田を中心に攘夷親征運動の機運が盛り上がっていたが、同藩の重臣・黒部権之介ら公武合体派は、これらの動きを藩を危険に陥れるものであると主張、藩内に深刻な対立を生じていた。河田は政変の前日8月17日夜、同藩の太田権右衛門・詫間樊六・佐善元立ら21人とともに、本圀寺に宿泊中の黒部ら4人を襲撃し、3人を殺害、1人を自刃させた(本圀寺事件)。政変後も親長州派として各勢力を周旋。しかし、翌元治元年(1864年)、長州藩が禁門の変を起こし朝敵となると、長州藩に通じたとして処罰され、藩地へ送られて幽閉された。慶応2年(1866年)、第二次幕長戦争の石州口において大村益次郎率いる長州軍に幕府側が大敗し、浜田藩領が攻略されると、河田は同志と共に脱藩して長州藩へ逃れた。その後、土佐脱藩浪士・坂本龍馬らと蝦夷地開拓を計画するが、頓挫した。慶応3年(1867年)、王政復古の大号令により朝敵であった長州藩が宥免され、倒幕のために長州藩兵が上京したのに伴い、河田らも鳥取に帰藩。翌慶応4年(1868年)の戊辰戦争勃発後は、東山道先鋒軍(総督は岩倉具定、参謀は板垣退助)に加わり、鳥取藩兵参謀となり、そして志願農兵山国隊の隊長も兼ねた。3月の江戸開城後は北関東に転戦し、4月下旬に宇都宮城の戦いで活躍。自ら抜刀して敵陣へ向かい、大声で配下の将兵を鼓舞したという。閏4月には政府軍下参謀に就任、会津戦争に従軍する。これらの活躍が認められ、賞典禄450石(鳥取藩士としては最高額)を与えられた。年号が代わって明治元年(1868年)10月28日、甲斐府判事に任じられ、新政府高官としての活動が始まる。翌明治2年(1869年)には軍務官判事、8月には兵部大丞に転ずる。さらに京都府大参事兼留守判官、弾正大忠、民部大丞兼福岡藩大参事などを歴任。明治4年(1871年)7月に断行された廃藩置県を受け、同年11月に初代鳥取県権令(現在の県知事に相当)となった。明治11年(1878年)には元老院議官に就任。明治16年(1883年)、宮内省の道場済寧館の御用掛(剣術の指導者)となる。明治20年(1887年)5月24日には子爵を授けられ華族に列した。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる。明治30年(1897年)10月12日に没する。享年70。東京都港区南青山の梅窓院に葬られ、後に府中市の多磨墓地に改葬された。法名は養心院殿本覚浩然大居士。
◆伊集院 兼寛
日本の武士・薩摩藩士、軍人、官僚である。薩摩藩出身。通称は直右衛門。諱は兼寛。明治期に海軍少輔・元老院議官・貴族院議員を歴任。子爵。 実姉の須賀が嘉永5年(1852年)に西郷隆盛に嫁いでいる(安政元年(1854年)に離婚)。伊集院兼寛は天保9年(1838年)薩摩藩士伊集院直五郎兼善の嫡男として生まれる。幕末維新期の兼寛は西郷隆盛・西郷従道兄弟や大久保利通らとの関係が深く薩摩藩きっての行動派の一人として活躍する。文久2年(1862年)の寺田屋騒動に有馬新七の同志として討幕計画に参加するも藩主命令により帰順する。謹慎処分を受ける。文久3年(1863年)の禁門の変では斥候として参加。藩主より功賜金を賜る。同年の薩英戦争では決死隊の一員に加わる。戊辰戦争では東山道総督府参謀に任ぜられ各地を転戦する。明治4年(1871年)大蔵省に出仕。明治初期の会計制度の整備に尽力する。同6年(1873年)海軍省に入省。翌年11月5日に海軍少将兼海軍少輔に昇進。台湾出兵の事務処理を手がける。同10年の西南戦争では四国方面の情勢探索活動に従事する。同11年(1878年)元老院議官に就任。同20年(1887年)5月24日、子爵を授けられ華族に列する。同23年(1890年)帝国議会創設により貴族院議員に就任し、同30年まで務める。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる。明治31年(1898年)4月16日勲一等瑞宝章を授与される。その4日後の4月20日死去。
◆宍戸璣
日本の武士(長州藩士)、政治家・官僚。子爵)。前名の山県半蔵でも知られる。文政12年(1829年)、長州藩士・安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。名は子誠、のち敬宇。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(松下村塾)に学び、また藩校明倫館に学ぶ。嘉永元年(1848年)、藩儒・山県太華の養子となり、半蔵と称する。安政元年(1854年)には幕府の役人・村垣範正に従い、蝦夷地および樺太・露国巡視を行う。翌年には長崎へ遊学。その頃から諸藩の志士と交流し、安政5年(1857年)に藩に戻ると、明倫館都講本役に任ぜられ、世子・毛利定広(のち元徳)の侍講となった。万延元年(1860年)、定広に従って江戸へ赴き国事に奔走する。文久2年(1862年)には同藩の久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎らとともに松代藩で謹慎中の学者佐久間象山を訪問。長州藩へ招聘するも叶わなかったが、国際情勢や国防論について薫陶を受ける。翌年帰藩した後、九州諸藩に尊王攘夷論を遊説。同年の八月十八日の政変後は京阪に潜伏して形勢を視察した。その後も長州藩は尊王攘夷運動に邁進するが、禁門の変の敗北、下関への四国連合艦隊襲来により窮地に陥る。長州藩は恭順派(俗論派)の牛耳るところとなり、半蔵も禁固されるが、高杉晋作・伊藤博文らの挙兵によって藩論が再転換し、赦免される。しかし幕府は長州藩へ問罪使の派遣を決定。藩は半蔵を家老宍戸家の養子として宍戸備後助と改名させ、広島の国泰寺で幕府問罪使・永井尚志に応接させた。交渉の長期化に伴い、広島藩に拘留されたが、翌年の第二次長州征伐開戦にあたり、幕府側の敗戦の調和策として放免された。この間の功績を認められ、宍戸家の末家を新たに建てることを認可され、直目付役に任ぜられた。また長防士民合議書を起草し各戸に配布し領内の団結を深めることに貢献した。明治維新後は、明治2年(1869年)に山口藩権大参事となる。翌年上京し、10月に刑部少輔。明治4年(1871年)11月には司法大輔。明治5年(1872年)には文部大輔となる。明治10年(1877年)、元老院議官となる。明治12年(1879年)3月には清国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した(琉球処分)直後であり、琉球の帰属問題が両国間の懸案となっていたが、宍戸は琉球に対する日本の領有権の法的根拠を明記した寺島宗則・井上馨外務卿の覚書を清国総理衙門へ提出、翌年交渉は妥結する。しかし清朝の重臣李鴻章らの反対により調印には至らず、明治14年(1881年)1月には交渉を打ち切って帰国した。帰朝翌年には宮内省出仕となり、明治17年(1884年)4月には参事院議官。明治18年(1885年)12月には再び元老院議官。明治20年(1887年)5月24日にはこれまでの功績を認められ子爵を叙爵。明治23年(1890年)帝国議会の発足に際し貴族院議員に任命され、同年10月20日、錦鶏間祗候となる。明治34年(1901年)10月没。享年73。
◆東久世 通禧
日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。天保4年(1833年)、東久世通徳(みちなる、1816年 – 1835年)の子として京都に生まれる。幕末の朝廷で少壮の公家として尊王攘夷を唱え活躍した。しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると、長州藩兵に守られ、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。このことを世に「七卿落ち」という。元治元年(1864年)、長州から大宰府に移された。慶応4年(1868年)、王政復古によって復権を果たす。1月17日に外国事務総督の1人となり、明治政府最初の外交問題・神戸事件の対応責任者となり伊藤博文と共に外国と協議。3月19日には横浜裁判所総督となった。通禧の在任した半年の間に神奈川裁判所総督・神奈川府知事と名称が変遷したこの職は現在の神奈川県知事に相当するものである。明治2年(1869年)8月25日、第2代開拓長官に任命された。前任の鍋島直正が実務にとりかかる前に辞職したため、実質的に開拓使の事業を始動させたのは通禧である。9月21日、開拓使吏員、農工民約200人をともない、イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。9月25日に箱館に着任した。なお、同月には王政復古の功績として賞典禄1000石を給されている。翌年、ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつける。明治4年(1871年)10月15日、侍従長に転じる。この年、岩倉具視を全権とする岩倉使節団に随行し、見聞を広める。明治15年(1882年)、元老院副議長。華族令施行に伴い、明治17年(1884年)に伯爵に叙されている。東久世家の家格は羽林家であり、本来は子爵相当であったが、明治維新における通禧の功が考慮されて伯爵とされた。叙爵の時点で功績が考慮された公家は、岩倉具視や三条実美など数少ない。明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治23年(1890年)に貴族院副議長、明治25年(1892年)に枢密院副議長を歴任した。墓所は中目黒の長泉院。
◆秋月 種樹
幕末・明治期の政治家。日向国高鍋藩の世嗣。貴族院議員、参与、明治天皇侍読。詩文に優れ、書家としても知られた。9代高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれる。安井息軒、塩谷宕陰らに師事する。若年より英明で知られ、秋月楽山は小笠原明山(長行)、本多静山(正訥)と並んで”学問界の三公子”と称された。文久2年(1862年)11月14日、部屋住みの身でありながら幕府学問所奉行に登用される。文久3年(1863年)6月26日、兄種殷の養子となる。同年9月28日、若年寄格との兼任を命じられた。秋月家は2万7000石の外様大名であり、異例の抜擢であった。元治元年(1864年)5月28日、学問所奉行を解任されて、将軍徳川家茂の侍読に任じられた。慶応3年(1867年)6月21日、若年寄に任ぜられるものの、幕府は長州征伐に失敗し既にその威信は失われており、種樹は病と称して拝命にも出仕にも応じなかった。これに幕府側は医師を遣わすとまで言いだし、高鍋藩士の水筑小一郎・黒木鷲郎兄弟は薩摩藩と謀り、品川湊に停泊中であった薩摩の翔凰丸に種樹を乗せ脱出させた。翔凰丸は幕府の戦艦の砲撃により大破しながらもどうにか兵庫に辿り着いたのであるが、江戸では翔凰丸が撃沈されたとの風聞が立ち、種樹も運命を共にしたのではないかとされた。それより然る後に大政奉還が成り、種樹は改めて江戸城へ出仕し同年12月25日に若年寄の辞意が認められた。慶応4年(1868年)2月10日、上洛し、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、新政府の参与に就任した。内国事務局に配属された。その後、公議所議長・左院少議官などを歴任した。明治5年(1872年)、海外遊学。明治7年(1874年)5月13日、種殷の死去により家督を相続した。明治8年(1875年)7月2日から明治13年(1880年)8月19日まで元老院議官を務めた。元老院議官在任中の明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、三好退蔵とともに旧高鍋藩士に西郷隆盛率いる私学校軍へくみしないように尽力するも、坂田諸潔や石井習吉、弟の秋月種事らが高鍋隊または福島隊として私学校側についてしまい、弟の種事は鹿児島の城山にて戦死する。明治14年(1881年)4月2日、隠居し、息子の種繁に家督を譲った。明治23年(1890年)6月12日、元老院議官に再任され、同年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた。明治27年(1894年)1月23日、貴族院勅選議員になった。明治37年(1904年)10月、病のため没する。享年71。従二位勲二等に叙せられる。