【古写真の調査後売却】徳島藩商人・明治16年暦広告

◆徳島藩
阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩(阿波富田藩)があった。豊臣秀吉股肱の臣で播磨国龍野を領していた蜂須賀正勝は、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられたが、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、家政が徳島藩主となった。入部当時の石高は17万5千石で、板野郡の一部は他領であった。阿波一国ではなかった。同年、家政により徳島城が築造。徳島城は明治新政府による1873年(明治6年)の廃城令まで約300年間にわたり維持された。最後まで残っていた「鷲の門」は第二次世界大戦中に焼失したものの、1989年(昭和64年/平成元年)に個人が再建、徳島市に寄贈された。2006年に、徳島城跡は日本100名城の76番目の城に指定されている。

徳島城完成時に踊られたのが阿波踊りの発祥とする説がある。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、家政は西軍により強制的に出家させられた上で高野山に追放され、阿波国は毛利家の軍勢が進駐して、その管理下に置かれた。その一方、妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)である嗣子の至鎮は会津征伐に従軍しており、9月15日(10月21日)の本戦では東軍として参加した。この結果、戦後改めて至鎮に旧領が安堵されることとなった。この時より実質的に徳島藩が成立したと言えるため、家政は「藩祖」、至鎮を「初代藩主」として数える。至鎮は大坂の陣において、2代将軍徳川秀忠より7つもの感状を受ける働きをした。これにより蜂須賀家は岩屋を除く淡路7万石を与えられる。寛永3年(1617年)に岩屋も加増され、阿波・淡路の2国・25万7千石を領する大封を得た。

吉野川流域では藍の生産が盛んで、特に10代重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾や品質により全国の市場をほぼ独占するに至った。藍商人より上納される運上銀や冥加銀は藩財政の有力な財源となった。領石高25万石と言われているが、実際には阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石になるともいわれている。明治4年(1871年)、廃藩置県により徳島藩は徳島県となった。その後名東県(阿波国・讃岐国・淡路国)を経て、一旦は高知県に編入された。この時、淡路島は兵庫県に編入された。1880年(明治13年)に徳島県として再び分離された。蜂須賀家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)の華族令で侯爵となった。