川上 冬崖(かわかみ とうがい)

画屋を無辺春色画屋と称す。諱は寛、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。 弘化元年、江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、出入していた円山四条派の絵師大西椿年に写生画 を学んだ。 嘉永 4 年、幕府御家人株を購入、御家人・川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。 幕臣となり蕃書調所へ出仕。 安政 3 年頃、蕃書調所へ入り、翌年絵図調出役となり西洋画法研究を始める。 文久元年、同所画学局設置により画学出役となり、高橋由一らを指導。
慶応元年、將軍徳川家茂に従って上京、技術者として製図・写真撮影に従事。 明治維新後、陸軍士官学校などで教えた。 明治 2 年、下谷御徒町の屋敷内に画塾「聴香読画館」を開く。小山正太郎、松岡寿、印藤(千葉)真盾、川村清雄、中丸精十郎、松井昇、浦井韶三郎らを指導。 明治 4 年、『西画指南』を刊行。 後に写真師・中島待乳の妻となる秋尾園は、 明治6年、父(秋尾利義、沼田藩士)が陸軍士官学校で馬術を教えていた頃の同僚に洋画家の川上冬崖・小山正太郎がおり、この時期に洋画を知ったと思われる。
明治7年、習画帳『写景法範』を刊行。 明治 9 年、明治天皇の北海道行幸に随行して、2 点の油画を制作献納。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会では美術部の審査主任を務めた。 明治 14 年、第二回内国勧業博覧会でも審査官を務めたが、熱海で自殺。 部下の起こした清公使館への地図密売事件の責任を取ったとされるが、詳細は不明。

生年/出身: 1828 長野(信濃国高井郡松代藩領領福島新田村)

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: