
別名に江畑彌吉。二男であった。実家は近江商人で、大阪に質屋を数件運営していた。主に母(江畑ちの)が商売をしていたようで、母も兄(江畑寅吉)も商才に長けていたという。明治37年、母の指示により中国阿南を商業目的で視察。一時帰国し、明治39年、弟の江畑弥惣吉とともにバンコクに移住。はじめ雑貨商(江畑洋行)を営んでいたが、明治42年の東京朝日新聞に、雑貨商から農業へ転換し成功した記事が残っている。明治43年ごろ、ランシット駅近くの農地でコメ作りを行っていたが、当時のタンヤブリー知事が日本製の農具を見て関心を受けたという話が残っている。当時は100人の労働者を雇用していたという。バンコクで写真館、写真機材や材料の輸入販売などを行い、写真館名は「プローム」「ミカサ」という2軒の名が残っている。プロームは妻の名であるという。
大正13年ごろ、バンコクの日本人会9代目会長で、同時期の会員に写真師・波多野章三がいた。兄(江畑寅吉)の江畑寅次郎は第46代滋賀県議会副議長、その子は江畑弥八郎といい滋賀県議会議員。昭和5年時点、ペナン、シンガポール、などで雑貨商は拡大した。彦根藩士(足軽、鉄砲隊など)に江畑氏がおり、のち商売で成功をした家があるが、関係性は不詳。シンガポールの日本人墓地公園にある顕彰碑に、江畑弥吉、梅屋庄吉の名が残っている。
生年/出身: 1887 滋賀(犬上郡磯田村大字八坂)
開業年:
開業地、主要拠点: タイ(バンコク)
師匠:
弟子: