
◆江崎岩吉
日本海軍の軍人。最終階級は海軍技術中将。東京市議・江崎礼二の四男として東京で生まれる。東京府立第三中学校、第一高等学校を経て、1916年4月、海軍造船学生となり、1917年7月、東京帝国大学工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)を卒業し、海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)に任官し横須賀鎮守府付となる。呉工廠付、同造船部副部員、造船監督官、艦政本部員(第4部)、イギリス駐在などを経て、1923年10月から1926年6月まで、グリニッジ海軍大学で学んだ。艦政本部(第4部)、横須賀工廠造船部員、横須賀鎮守府付、艦政本部員(第3部)、海軍技術研究所出仕、兼艦政本部員(第4部)、呉工廠造船実験部長、横須賀工廠造船部長などを歴任し、1940年11月、海軍造船少将に進級した。また、1935年の藤本喜久雄の急死後、その後任に名前が挙がった(平賀譲#平賀艦艇設計の評価)。艦政本部出仕(第4部)、基本計画主任(1941年 – 1943年)などを勤め、1942年11月、海軍技術少将となる。さらに、艦政本部第4部長となり、1944年5月、海軍技術中将に昇進。同年10月、予備役に編入された。
◆写真師・江崎礼二
江崎村の豪商・塩谷家に生まれる。 幼いうちに両親を失い、叔父の塩谷宇平に養われ、農作業を手伝っていた。 文久 3 年、同郷の写真史研究者・久世治作の家(美濃中川村の庄屋)に出入りするようになり、1 枚の写真を見せられ、写真師を目指す。 久世治作は、化学者で官吏。飯沼慾斎に写真技術を、辻礼助に化学を学んでおり、のち大垣藩士、造幣局判事となった人物。 なお、大垣藩に写真技術がもたらされた経緯は、万延年間に同藩藩士の蘭学者・飯沼慾齋が長崎から持ち帰り、藩主・戸田氏政に献上したことによる。また、嘉永6年には、前年のペリー艦隊(下田)に同行していた写真家・エリファレット・ブラウン・ジュニアによりもたらされた写真技術を、大垣藩人夫頭・久世喜弘( 久世治作 )が現地から大垣に伝えている。明治 3 年、同郷の権大参事・小野崎 五右衛門蔵男に従って東京へ出て、書生として勤めた。 この時に本姓・塩屋から江崎と名を改めた。 なお、小野崎五右衛門蔵男の子・ 小野崎 一徳は、のちに写真師となっている。洋学者・柳川春三の『写真鏡図説』を購入、さらに眼鏡店(京橋竹川町・玉屋松五郎)でレンズを購入、写真術 を独習した。 明治 4 年、下岡蓮杖、上野彦馬に師事して独習によって生じた疑問点を解消。 明治 4 年、東京芝日陰町に間借りで写真スタジオを開業。 明治 5 年(6 年とも)、浅草奥山に移った。 明治15年、開発されたばかりの乾板写真技術をイギリスから輸入し日本に定着させた。 明治16年、飛んでいる鳩や隅田川における海軍水雷爆破の瞬間、短艇競争の様子をスワン乾板で撮影し、早取写真師として著名となった。 明治16年、江崎の写真技術に注目した古河市兵衛は、足尾銅山の近代化の状況記録を依頼し、門下の小野崎一徳を指名している。明治 17 年、成島柳北の葬儀を撮影。 明治 18 年、打上花火を撮影。 明治 18 年、鹿島清兵衛は写真師・江崎礼二に写真術の手ほどきを依頼している。 明治20年、夜間撮影を成功。 鹿島清兵衛は江崎礼二の助手であった今津政二郎から写真術を学んだという。 明治 23 年、軽気球乗りを撮影。 明治 26 年、幼児 1700 人のコラージュ写真を製作する等した。 明治 31 年、東京市会議員・市参事会員に選出。 議員時代に東京における高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案。 明治 43 年(明治 42 年とも)、死去。江崎三郎が二代目として継承。江崎清は長男。江崎礼忠は養子。四男の江崎岩吉は海軍技術中将。
◆写真師・ 江崎礼忠
本名は江崎忠造。江崎礼二の養子となる。明治20年、米国に留学し、ロサンゼルスで写真化学を、ニューヨークで写真術を、写真学校教授エルマンに写真技法を学ぶ。明治 22 年、帰国。引伸機や万世不変色印画紙、透明写真ブロマイド、顕微鏡写真、夜間撮影機など新し い写真機材の発表会を開いた。のちボンベイに渡る。 江崎礼二の長男・江崎清も写真師となっている。
◆江崎清
江崎礼二の長男。弟の江崎岩吉は海軍技術中将。江崎礼二の養子・江崎礼忠も写真師。妻は薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚、官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長などを歴任した末弘直方の娘。明治31年、営業写真の技術を習得するために米国に渡る。帰国後、浅草で開業。大正7年、大阪の写真師・小林祐史は、写真師の叔父・小林定一の薦めで東京美術学校(現在の東京藝術大学)写真専科に入学し、江崎清に肖像写真 を学んでいる。関東大震災後は銀座に写場を移転。大正12年、東京写真師協会創立、理事長。大正15年、全日本写真師会会長。日本写真協会相談役。明治百美人(日本初の美人コンテスト)で、一等の末弘ヒロ子(妻の妹)を撮影している。