

◆写真師・江木保夫、 江木松四郎 (江木本店)
江木保夫 は、江木保男の表記もある。幼名は江木鶴之進。 父は頼山陽(歴史家、思想家、漢詩人、文人)の門人、備後福山藩の老中・阿部正弘の儒官・江木鰐水。 江木鰐水は福山藩士だったが、維新後に愛国社を結成。養蚕製糸、築港、塩田開発を計画した。 江木保夫は 5 男、江木松四郎は 6 男。長男から 3 男は若くして亡くなっており、4 男には明治 3 年以降複 数回の渡米経験のある江木高遠(官僚、外交官)がいる。 ただし、江木保夫は馬屋原氏の養子と表記があり、そのため、 江木保夫と 江木松四郎は同年の出生となっている。 同じ備後福山に儒者・馬屋原重帯の家系があるが、関係は不詳。 安政 3 年、江木保夫(5 月)、江木松四郎(11 月)生まれる。 江木保男は中江兆民の仏学塾で学んでいた。明治 8 年、司法省に入るが、その後は三井物産に在籍。まもなく商業に転じて貿易商をいとなむ。 明治11年、パリ万国博覧会に出向き、郵便報知新聞社に博覧会記事を寄稿している。明治 13 年、アメリカからソーラーカメラ、写真引伸器械を輸入、東京京橋区山城町三番地(銀座6丁目) に江木商店(江木写真店)を江木保夫、江木松四郎が共同で開店。 江木保夫が経営面、江木松四郎が技術面を担当したようである。 保男はオランダへ、松四郎はアメリカ(サンフランシスコ)へ留学し、写真術、業界事情について研究。 明治 14 年、江木松四郎は第二回内国勧業博覧会で受賞。 明治 15 年、江木松四郎は京都府博覧会で受賞。明治16年、 江木保夫 はアムステルダム国際植民地貿易博覧会に出向いて海外の商業事情を視察。明治 17 年、帰国後、神田淡路町に江木写真店を開店。 明治 23 年、内国勧業博覧会に出品して褒状を受けた。 明治 24 年、新橋丸屋町(銀座 8 丁目)の土橋北詰の牛肉店・黄川田(きかわだ)の土地を買い取り、六層塔の支店を設けた。 明治 24 年、技師には成田常吉(銀座支店)がいた。 明治 24 年、濃尾地震の惨状を撮影するために現地に写真家を派遣した。 明治 26 年、向島言問間に軽便写真場を組立て写客の求めに応じて撮影した。 写真業以外に油画、絹画、クレヨン画、インデアンインキン画、写真帖などを兼業した。 技師に工藤孝(神田江木本店)等が居る。 明治 31 年、江木保夫死去。 明治 32 年江木松四郎死去。 江木保夫の死後、 江木 松四郎 の妻・エツ子は 13 歳の息子・江木定男を抱えて銀座支店の経営に当たった。 神田本店は 江木 松四郎が受け継ぐが、翌年亡くなったため、息子 江木 善一が後を継ぐ。 江木定男(二代目)はやがて官吏(農商務省)の道を歩み、経営は母エツ子を中心に行われた。 技師長に中村利一も加わり、宮家・華族・財界などを顧客とし、繁盛するようになった。 江木写真店には大正 2 年(1913 年)、アメリカで写真術の修行をして帰国した五十嵐与七が入店。江木保夫の妻は、父・江木鰐水の門人で官僚の鶴田皓の娘・鶴田蝶子。
◆松浦力松( 川嶋 庄一郎 )
日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉( – 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は、かつ(1838年10月13日 – 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 – 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 – )である。1876年(明治9年)3月16日に父の平吉が亡くなり、一家は貧しい生活を強いられ苦労するが、力松は二人の兄とともに母をよく助けた。また、寺子屋で一度習ったことは二度と忘れなかったことから「袋耳」の異名があり、その親孝行ぶりと頭脳の優秀さは、1914年(大正3年)発行の『安諦村誌』の中で「川嶋庄一郎氏は、天資英明、遠く衆童に勝れしは人口に膾炙する所にして母に事ふること至って厚く、常に近隣の人を驚嘆せしめし程なり。母を遇することの厚きは豈唯同氏のみに止まらず、當家の家風なるものの如し、兄庄太郎も弟虎松も決して譲らざる所なるべし。直き材は整然たる森林に於てのみ得らるる如く、同氏の今日ある亦所以なかるべからず」と、紹介されている。地元の開明小学校(現・有田川町立安諦小学校)を卒業後和歌山県師範学校に進み、1889年(明治22年)学力操行共に優等を以て卒業。その後東京高等師範学校に入学するが、その優秀さが、跡取りを探していた和歌山市本町8丁の資産家で地主の川嶋庄右衛門の目に留まった。松浦力松は、東京高等師範学校卒業直前の1894年(明治27年)3月、川嶋家の婿養子となるに当たって、当主の庄右衛門の一字をとって庄一郎と改名し、同月25日に庄右衛門の長女・志まと結婚した。京都、富山、滋賀の師範学校の教諭を務めた後、1899年(明治32年)に東京高等師範学校の研究科に入学。卒業の1901年(明治34年)12月に学習院の教授に任ぜられ、その後佐賀県師範学校、奈良県師範学校の校長を歴任し、1920年(大正9年)7月から1924年(大正13年)3月まで和歌山市視学を務めた。和歌山市視学を退いた後は、和歌山県教育会副会長、和歌山県選挙粛清委員、少年教護委員、国防協会理事、和歌山県師範学校教授嘱託等の公職に携わる。1945年(昭和20年)7月19日のアメリカ軍による大空襲により、本町8丁の川嶋邸は焼失。一時期東京に住む長男・孝彦のもとに身を寄せるが、すぐに和歌山に戻り隠居生活に入り、1947年(昭和22年)2月12日当時の海草郡紀伊村弘西(現在の和歌山市弘西、または同市府中)で没した。板尾徳善寺の過去帳によれば、法名は教善院積空聖道居士。
◆山田 禎三郎
日本の教育者、実業家、衆議院議員。信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に生まれる。1894年東京高等師範学校を卒業後、郡立諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に勤め、千葉県師範学校に赴任。その後、 同郷の渡辺千秋京都府知事の縁故で京都府視学に登用されたが辞任し、1899年茨城県師範学校の校長となった。1900年教職を去り、千葉新聞の記者となる。その後は実業界に転じ、書肆普及会会長、帝国書籍取締役に就任。1902年の教科書疑獄事件では直前にヨーロッパの教科書事情調査として渡英しており、逮捕は免れたが留守宅が家宅捜索を受けた。また政界に進出し、1902年の第7回衆議院議員総選挙に長野市選挙区から出馬し落選、1912年の第11回衆議院議員総選挙に同県郡部選挙区から当選を果たす。しかし事業の失敗により1年足らずで辞職し、株券の偽造により投獄された。1907年に中ノ鳥島を発見し、上陸の後、測量までしたとされるが、その後誰1人としてこの島を発見する事は出来なかった。
◆小平小平治
本目録には諏訪郡湖東村(茅野市)出身の俳人で考古学者である小平雪人(本名探一)の兄小平小平治の遺品に関わる資料を収録している。小平治の遺品は、父禎三と雪人が湖東村の生家の近くに設立した龍谷文庫に収められていた。長らく禎三の三男定太の家で代々管理されてきたが、文庫閉鎖にあたり小平貞明氏により中野市田川幸生氏に寄贈された。本資料群は田川氏より平成21年度に一括当館へ寄贈されたものである。このうちこの目録は古文書・記録・文芸関係の作品について収録している。書籍・考古資料については別途目録を作成している。小平小平治は医師禎三の長男として湖東村で生まれた教育者で考古学者である。東京高等師範学校で坪井正五郎のもとで考古学を学んだ。1891年に『東京人類学会雑誌』誌上で初めて尖石遺跡を紹介したことでも知られる。帰郷後は長野県尋常師範学校教諭として赴任するが夭折した。小平治の弟雪人は慶應義塾で福沢諭吉に学び、兄の死後湖東村に戻り自宅近くに湖東義塾を開き農閑期の農村教育に当たった。兄の影響で考古学を始めた。1928(昭和3)年に東京で開催された石器時代文化展覧会で龍谷文庫の出土遺物を出展している。 また俳諧を良くし、地域で句会を開催しその門人に宮坂英弌がいた。宮坂もまた考古学への関心を深めていった。本資料群は大きく分類すると以下の通りである。1 江戸時代の上管沢新田村名主家関係の史料が400点余り含まれている。2 湖東村関係役場文書 3 教科書・雑誌・古典書籍類 4 新聞切抜 5 俳句短冊 約700点 埴科郡屋代町正五位堀内賢郎氏(国会議員) ほかが含まれる。 6 小平鼎関係資料 小平鼎は雪人の次男で洋画家である。石井伯亭に師事し信州美術会結成に尽力した人物である。本資料群には学生時代の鼎の人物デッサン画が複数枚残されている。旧制諏訪中学時代のものと考えられる。
◆野口 援太郎
日本の教育者。明治元年(1868年)生まれ。筑前国鞍手郡(現・福岡県)出身。東京高等師範学校卒。明治34年(1901)姫路師範学校の初代校長となる。大正デモクラシーを背景に自由主義教育を唱え、大正13年(1924年)に「池袋児童の村小学校」を設立。児童中心主義に立ち、教科や時間割の枠にとらわれず、子どもと教師の生活共同体的な学びの場を目指した。池袋児童の村小学校は、昭和11年(1936年)には母体である教育の世紀社の経営が苦境に陥り、閉鎖を余儀なくされた。この小学校の中学部としてスタートした学校が城西学園となった。昭和16年(1941年)死去。
◆高橋 健自
日本の考古学者。主として弥生時代と古墳時代を研究領域とした。日本考古学の発展に大きな足跡をのこした研究者である。主著に『銅鉾銅剣の研究』『日本原始絵画』『鏡と剣と玉』がある。明治4年(1871年)8月17日、仙台県仙台城下町(現宮城県仙台市)の仙台藩士の家に生まれる。東京高等師範学校では三宅米吉に師事し、1893年に卒業。1904年(明治37年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)にはいり、博物館員から鑑査官、歴史課長を歴任した。そのいっぽうで日本考古学会を主宰しての幹事をつとめ、『考古学雑誌』を刊行、考古学の発展と普及につくした。喜田貞吉とは古墳の年代決定をめぐって論争となっている。1922年(大正11年)、『考古学雑誌』に「考古学上より観たる邪馬台国」を発表し、邪馬台国の所在地を畿内とする説に立った。1929年(昭和4年)10月19日、脳膜炎のため死去、享年59。墓所は仙台市宮城野区榴岡の孝勝寺にある。
◆峰岸 米造
日本の教育者。上野国(現群馬県)出身。旧姓は小島。小学校教員の検定試験に合格し、16歳で群馬県桐生小学校の訓導兼校長となる。群馬師範学校卒、東京高等師範学校卒業。明治31年(1898年)東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)教諭となり、のち高等師範教授を兼ねる。1908年(明治41年)6月25日 – 勲六等瑞宝章。
◆小山左文二
福井県師範学校主事。東京高等師範学校教授。中央幼年学校講師。私立東亜予備学校教員。陸軍士官学校教授。啓明学園主。
◆古山栄三郎
台湾総督府編輯官
◆富永実達
東京高等師範学校教諭 沖縄県士族
◆木野崎吉辰
福島県師範学校校長
◆泉英七
岡山県師範学校付属小 学校主事
◆荒木竹次郎
熊本県立鹿本中学校(現鹿本高校) 初代校長
◆久野木栄
静岡県賀茂郡立中学豆陽学校長
◆成田三千郎
青森師範学校
◆波多巌
鹿本中学校教諭
◆ 東京高等師範学校
1886年(明治19年)4月、東京市神田区(現在の東京都文京区)に設立された官立の高等師範学校(旧制教育機関)である。略称は「東京高師」(とうきょうこうし)。1886年(明治19年)4月の師範学校令により尋常師範学校と区別される高等師範学校が制度化されると、東京師範学校は「高等師範学校」へと改称・改組されて全国唯一の高等師範学校となり、初代校長には現役の陸軍軍人(歩兵大佐)であった山川浩が就任した。この学校は文部大臣管轄下で国費によって運営される官立学校であり、小学校教員の養成にあたる尋常師範学校の校長・教員の養成を中心に中等学校教員養成を担うものとされた。同年10月には学科などの制度が規定され、修業年限3年で尋常師範学校卒業者を対象とする「男子師範学科」、修業年限4年で尋常師範学校第2学年修了者を対象とする「女子師範学科」から成るものとされたが、後者は1890年(明治23年)に「女子高等師範学校」(のち東京女子高等師範学校)として分離独立した。また同時に生徒募集・学科構成・卒業生の服役義務などは文部大臣が定めるところによるものとされ、高等師範学校の運営は他の尋常師範とともに国家の強力な支配の下に置かれることとなり、この結果、高師は山川校長の下で忠君愛国教育の推進の要として寄宿舎生活から服装に至るまで完全に軍隊化された。さらに師範学校令に代わる師範教育令(1897年(明治30年)公布)に基づき、高師は師範学校(尋常師範学校を改称)・尋常中学校・高等女学校など広く中等学校全般の教員養成機関として位置づけられるようになり、これに相応しい学科・課程が整備された。これ以降、本校は全国の中等学校に教員を供給し続け、1882年(明治15年)に発足した同窓会「茗渓会」を通じ戦前期の中等教育界に大きな影響を及ぼすこととなった。