【古写真の調査後売却】映画製作、配給会社『日活』関係者の集合写真(大判台紙)

【古写真の調査後売却】映画製作、配給会社『日活』関係者の集合写真写真師台紙鶏卵紙

◆日活
日本の映画製作、配給会社である。社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」の略称に由来する。本社は東京都文京区本郷3-28-12。調布市に日活撮影所を有している。撮影所内ではかつて日活芸術学院(1975年 – 2013年)を運営していたが、城西国際大学に事業譲渡している。ミニシアターのシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市にシネマコンプレックスのシネリーブル千葉ニュータウンを所有していたが、2009年4月から、東京テアトルとの業務提携により、運営を東京テアトルに委託している。また、スカパー!プレミアムサービスやケーブルテレビ局向けにチャンネルNECO、レインボーチャンネルを、スカパー!(東経110度CS放送)向けにチャンネルNECOを放送している。かつては東宝、東映、松竹と並び称される映画会社だった時代もあり、一時は映画館のほかホテル・ゴルフ場・ボウリング場をもつ総合レジャー企業を志向していた時期もあったが、設立当初から経営危機・和議申請・会社更生法申請・様々な企業に買収・転売されるなど苦難の歴史をたどり続けた。1970年代 – 1980年代後半には経営の苦しい中日活ロマンポルノの名称で映画製作業務を続け、助監督の採用を続けていた。当時採用した助監督は、その後監督に昇進し、今日の日本映画を支えている。詳細は「日活ロマンポルノ」を参照会社自体は日本最古の歴史を誇るが、戦時中に新会社の大映に製作部門を譲渡し、日本の大手撮影所建設としては現時点で最後である1954年に撮影所を建設し、ゼロから製作を再開したこと、その際に五社協定包囲網に抵抗しながら新人発掘で乗り切ったこと、製作再開まもなくから十数年間、青春映画やアクション映画を得意としたことなどから、老舗としてよりはニューパワーとして位置づけられ語られることが多い。これは、遥かに後発の大映が、実質的に旧日活の製作部門を継承しているために「伝統」の文字を冠させられることが多いのと対照を成している。

◆参考(写真師・鈴木 經勲
*日活初代社長・後藤猛太郎とともに 南洋行きを命じられている。
日清戦争に記者として従軍し、撮影している。父は土佐出身で武州川島の鈴木氏に養子に入った幕臣。昌平坂学問所で学び、のち幕府陸軍語学所でフランス語を学ぶ。明治元年頃、静岡に移る。1876年、ラッコ密猟船に乗り込んだ後、密猟取締策を建策。1879年、外務省に雇われる。1883年、マーシャル諸島(ラエー環礁)に漂着した日本人船員が現地人に殺害される事件が起こり、後藤猛太郎(日本活動フィルム(日活)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵)とともに南洋行きを命じられた。1884年、イギリスの捕鯨船(エーダ号)でマーシャル諸島に赴き事件を解決する。1886年、外務省を退官。1889年、軍艦金剛の練習航海に同乗し、ハワイ、サモアを訪問。1890年、田口卯吉(経済学者、歴史家、実業家。東京府会議員、衆議院議員)の南島商会に参加し、天佑丸のミクロネシア貿易巡航に同行。1892年、『南洋探検実記』を出版。1893年、『南島巡航記』、『南洋風物誌』を出版。1894年、日清戦争に際して従軍記者となり写真撮影をした。『平壌大激戦実見録』を出版。その後陸軍のためにロシアに対する密偵として働いたとされるが資料はない。その後保険会社に勤めた。昭和13年、死去。

◆ 参考(写真師・梅屋 庄吉
*海外で写真館経営の後、日活の取締役に就任している。
梅谷庄吉、梅谷正人、梅屋 正人の表記もある。本籍地は長崎県下県郡厳原町大字宮谷。父は本田松五郎、母は本田ノイ。明治元年、生まれる。遠い親戚である西浜町川端通り31番戸の貿易商精米所・梅屋吉五郎(梅屋商店)の養子となる。養母は梅屋ノブ。梅屋商店という表記もある。梅屋家は土佐藩の経営する土佐商会の家主でもあった。明治6年、出来鍛治星町八番地の私塾・佐藤塾に入り習字を習う。明治8年、榎津小学校に入学。明治11年、榎津小学校卒業。明治15年、梅屋商店の持船「鶴江丸」に乗り込み、上海に渡る。明治19年、ビニエスペンドル号に乗り、上海からフィリピンを経てハワイに行く計画したが、船火事に遭い長崎に戻る。明治20年、朝鮮半島全体が大飢饉となった際、梅屋商店の米を輸出し一時的に儲けたが、明治26年には米穀相場に失敗し梅屋家には借金が残った。
明治24年、鉱山開発を計画するが失敗。明治24年、香椎トクが、梅屋家の養女となる。明治26年頃、長崎に居られなくなり、中国へ退転。中国福建省アモイ島、東南アジアを転々とした。逃避中、シンガポールで熊本県出身のからゆきさん「中村トメ子」と知り合い、生活を始めた。中村トメ子は上海でイギリス人と暮らしている間に、イギリス人から写真技術を学んでおり、それを梅屋庄吉に教えた。明治26年頃、まず、シンガポールで写真館「梅屋照相館」を開業。上手く行かず明治27年頃、香港へ移り成功を収める。明治27年、香椎トク(梅屋トク)(明治8年生まれ)と結婚。梅屋庄吉は香港で写真館を営み、梅屋トクは梅屋商店を切り盛りした。妻は長崎壱岐勝本浦、士族・香椎岩五郎の次女。香椎家は鉄砲奉行であったという。香椎神社の神官であったとも伝わる。 香椎家には、孫文の支援金が壱岐島のどこかに隠されているという言い伝えが残る。明治27年、養父梅屋吉五郎が76歳で死去。明治28年、英国人医師ジェームス・カントリーの紹介で、中国革命を目指していた孫文と香港で知り合う。中国革命の際、孫文に多額の資金援助をするなど、辛亥革命の成功に寄与している。この頃、中村トメ子は梅屋庄吉に見切りをつけ、別の男性と結婚した。革命への資金援助額は現在の価値で一兆円に及ぶとされている。明治34年の在香港日本人実業家等分布表には梅谷正人と表記があり、「M・MUMEYA」の台紙がある。明治36年、養父養母ともに他界した後、妻・梅屋トクは香港に移り、梅屋庄吉と同居。この頃、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らとフィリピンの独立運動にも関与した。明治37年、香港の梅屋照相館が反乱軍の拠点であると密告され、シンガポールへ脱出。 シンガポールの梅屋照相館で映写機と映画フィルム4巻で映画興行を行い成功した。明治38年、フランス・パテー社の映画を購入して帰国。映画会社・M パテー商会を設立して興行をはじめる。明治42年、撮影所を作り制作に進出。明治43年、白瀬矗(のち陸軍輜重兵中尉)を隊長とする南極探検隊が出発すると撮影を同行させ、記録映像を残した。明治44年、撮影隊を派遣し、辛亥革命の記録映画を制作。明治45年、横田永之助(映画製作者、映画興行師、のち京都商工会議所会頭)らと日本活動写真株式会社(日活)を設立。自らは取締役に就任し、日本映画界の元祖となる。大正元年、孫文は臨時大総統に就任。大正2年、日活取締役を辞任。大正2年、孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命。その後も孫文を支援している。大正4年、孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿大久保百人町の梅屋庄吉自邸で主催した。大正4年、映画会社「M・カシー商会」設立。翌年解散。昭和4年、南京に孫文像を寄贈。 ほか、広州、黄埔、マカオにも孫文像を建立している。宋慶齢(孫文の妻)、新宿中村屋(相馬愛蔵・良夫妻)、柳原白蓮(宮崎龍介、白蓮事件)、星一、ラス・ビハリ・ボース(インド独立運動家)などとも関わっている。晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘に移住。この別荘において孫文らと秘密の会議を行うこともあったという。昭和9年、日中関係悪化の際に、外相・広田弘毅に談判に赴く途中、別荘の最寄駅「三門」(現・千葉県いすみ市日在、外房線)にて急死。2011年、中国政府は、長崎県に孫文・梅屋庄吉・梅屋トク3人の銅像を寄贈。壱岐市に梅屋トクの胸像を寄贈。シンガポール滞在時、 1919年の香港店主の名に佐藤福蔵とあるため、門人と思われる。ほか、大正期の門人に、佐野みさを(神奈川)、末永近次郎(長崎)、松田金三郎(石川)、曾根田峯(東京)などがある。開業地について、資料によると大正9年の時点で当時の香港のクイーンズロード・セントラル8号にあり、大正14年頃にクイーンズロード・セントラル38,40号に移転している。 香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎の写真館も近くにあったが、交流の有無は不明。日比谷松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と梅屋庄吉の孫が結婚しており、梅屋庄吉の資料は小坂家に引き継がれた。