【古写真の調査後売却】工学院大学長・石橋絢彦(写真師・小川一真)

【古写真の調査後売却】工学院大学長・石橋絢彦

◆石橋 絢彦
日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。中井国蔵・中井ふくの五男として江戸に生まれ、のち幕臣石橋家を継ぐ。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。帰国後工部省准奏人御用掛を仰せつけられ灯台局在勤を命ぜられた。明治22年(1889年)神奈川県雇に転任、臨時横浜築港北水堤現場監督となる。明治24年(1891年)再び灯台局に復職し、航路標識管理所長兼同所技師長に転任した。明治27年(1894年)日清戦争が勃発すると大本営付を命ぜられ、対馬、五島五ヶ所へ灯台建設に従事した。明治37年(1904年)日露戦争の際には病を冒して渡韓、浮標設置、灯台建設に従事した。明治43年(1910年)工手学校(現在の工学院大学)長に就任。横浜市の吉田橋を改修し、日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋を完成させた。1895年(明治28年)11月18日 – 明治二十七八年従軍記章

◆写真師・小川 一真
武蔵国忍藩藩士・原田庄左衛門の次男として生まれる。 写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(旧姓・原田徳三郎)は実弟。 忍藩・培根堂で学んでいる。文久3年、武蔵国行田藩士・小川石太郎の養子となる。この頃から小川一眞と名乗っている。明治 6 年、藩主・松平忠敬の給費で東京の有馬学校に入り土木工学と英語学を修める。 この頃、写真術に興味を持ったという。 明治8年、有馬学校を卒業して帰郷。明治8年、熊谷の写真師・吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学ぶ。明治8年(10年とも)、上州富岡町で「小川写真館」開業。この頃、古沢福吉(富岡町初代郵便局長)と親交があり支援を受けている。明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。
明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。 明治24年、浅草凌雲閣が開催した「百美人」コンテストを撮影。明治 26 年、シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた万国写真公会に商議員として参加し、渡米。 網目版印刷の存在を知り、アメリカで印刷機械や器具、印刷材料一式を購入して帰国。 明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。明治35年から明治40年にかけて、渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎、実業家の岩崎輝弥(岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助の子)は、小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。これらの写真は現在、さいたま市にある鉄道博物館に所蔵された。明治 36 年、板垣退助の三女、 板垣婉と結婚。二人の妻に先立たれており、3人目の妻であった。なお、 板垣婉(小川婉)は、明治5年生で、母は板垣清子。初め板垣猿という名で、のち婉(婉子)と改め、安川甚一に嫁いだが離縁し、のち小川一真に嫁いだ。明治 39 年、勲五等双光旭日章を受章。明治 43 年、写真師として初の帝室技芸員を拝命。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。東京芝白金の前島英男(丸木利陽門下)とともに宮内省写真部を設立。大正2年、小川写真化学研究所を創設。大正4年、神奈川県平塚市で死去。従六位。