

◆南部利恭(盛岡藩第15代藩主)
陸奥国盛岡藩第15代(最後の)藩主。第14代藩主・南部利剛の長男。官位は従二位、甲斐守。伯爵。 幼名は彦太郎、初名は剛毅。文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年(1868年)10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民とともに官軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父利剛とともに東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、父利剛が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石13万石に減転封された。明治2年6月18日、版籍奉還により、白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下甲斐守に叙任する。 明治2年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。明治17年7月、伯爵となる。 正室は伊達宗城の娘、継室は溝口直溥の娘、浅野懋昭(としてる)の娘・喜久子(1856-1902、長勲の実妹にあたる)。子は、長男・南部利祥(南部家第42代当主)、次男・南部利淳(南部家第43代当主)、庸子(毛利元秀室)。
◆南部喜久子(南部利恭継室)
安芸国広島新田藩の第7代藩主・浅野懋昭の娘。南部利恭は正室、ほかの継室に子がいないため、南部喜久子との子が跡を継ぐことになる。
◆盛岡藩
陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。
◆祖父・南部利済(13代)
南部 利済(なんぶ としただ)は、陸奥国盛岡藩の第12代藩主。廃嫡された南部利謹(第8代藩主・南部利雄の長男)の次男。三閉伊一揆を誘発した。横沢兵庫を登用して武備充実や殖産興業策などの積極的な政策を推進したが、経済振興のために盛岡城下に遊郭を建設するなど、藩内感情を無視した膨大急激な計画は反感を買い、凶作の中での奢侈と増税で、最終的には三閉伊一揆を誘発して隠居したにもかかわらず、隠居後も俗に「三奸」と呼ばれた田鎖左膳、石原汀、川島杢左衛門を重用して藩政に介入した。
◆父・南部利剛(14代)
南部 利剛(なんぶ としひさ)は、陸奥国盛岡藩の第15代藩主。第13代盛岡藩主・南部利済の三男。藩主・南部利済の三男として盛岡に生まれる。七戸藩主南部信誉の養嗣子となるが病により本家へ戻る(『補遺参考諸家系図』)。嘉永2年(1849年)9月26日、養父利義の隠居より、家督を相続した。養父(実兄)利義の隠居は、実父の利済との対立のためであった。同年10月15日、将軍徳川家慶にお目見えする。同年12月16日、従四位下美濃守に叙任する。嘉永4年12月16日、侍従に任官する。文久元年(1861年)12月16日、左少将に任官する。元治元年(1864年)4月18日、中将に任官する。利剛の家督相続に対しては反対が根強く、嘉永6年(1853年)の第2次三閉伊一揆では利義の復帰及び帰国が一揆側の要求の一つであった。この要求は退けられ、その後も藩主は利剛のままであった。安政元年(1854年)2月23日、幕府は祖父利済に対し、江戸下屋敷での蟄居を命じる。養父利義に対し、藩政への介入を禁止している。父が幕府の命により江戸で蟄居を命じられて以降に親政を開始したが、藩政再建に関して家老で母方の従弟の楢山佐渡と、同じく家老で極端な改革を進める東政図(中務)が対立するなど、藩政は迷走する。安政2年(1855年)の安政大地震に遭遇して負傷する。慶応4年(1868年)、夏に九条道孝率いる新政府軍の進駐を受けてこれに対し饗応するが、布告には恭順しなかった。同年8月、楢山佐渡の京都からの帰国及び秋田藩が新政府側へ恭順すると、これを攻撃するために奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵した。同年9月新政府軍に降伏を申し入れ、同年10月9日降伏を認められた。同年12月7日に明治新政府から隠居と領地没収を命じられたが、長男・利恭に陸奥国白石13万石に減転封となった。また、家老・楢山佐渡ら3人が切腹となった。
◆息子・南部利祥
日本の陸軍軍人。 第15代盛岡藩主南部利恭の長男で南部家第42代当主にあたる。階級は陸軍騎兵中尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。 1890年(明治23年)、学習院初等科三年生のとき、皇太子(大正天皇)の学友に選抜される。 教育係の東條英教(東條英機の父)の勧めにより陸軍に仕官し、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、1903年(明治36年)6月に陸軍騎兵少尉に任じられる。同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。1904年(明治37年)、日露戦争が勃発し利祥は満州の最前線で活動した。翌1905年(明治38年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死。享年23。 利祥の栄誉を後世に残すため旧盛岡藩士らによって、1908年(明治41年)、岩手公園に利祥の銅像が建立された。しかし、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残るのみである。
◆息子・南部 利淳
南部家第43代当主。第15代盛岡藩主南部利恭の次男。兄は第42代当主南部利祥。爵位は伯爵。 明治38年(1905年)日露戦争で戦死した兄利祥の後を継ぎ南部家第43代当主となる。東京帝国大学在学中の明治40年に旧鳥取藩主池田輝知侯爵の三女嚴子と結婚し、一男一女をもうける。 利淳夫妻は芸術に造詣が深く、利淳は彫刻や書道、嚴子は日本画や竹細工などをたしなんだ。また、夫婦で黒田清輝、五味清吉、石川寅治などの画家から洋画を習っている。大正3年(1914年)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。また、学生への給費制度を設けるなど、人材の育成にも貢献した。 昭和3年(1928年)に長男南部利貞を18歳の若さで失ったため、昭和4年(1929年)に一條實輝公爵の三男實英(利英と改名)を長女瑞子の婿養子として迎える。 翌昭和5年(1930年)1月1日、胃潰瘍により急逝した。享年45。
◆父・浅野懋昭
安芸国広島新田藩の第7代(最後)の藩主家の系統。 (あさのとしてる。第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)。浅野 重晟(あさの しげあきら)は、江戸時代の大名で安芸広島藩第7代藩主。浅野家宗家8代。第6代藩主・浅野宗恒の長男。将軍徳川家重から賜った偏諱(「重」の字)と、初代長晟・2代光晟・3代綱晟の3名が用いた「晟」の字とにより重晟と名乗る。
◆兄・浅野 長勲
日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。浅野懋昭(としてる。第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)の長男。安政3年(1856年)2月、伯父・浅野長訓の養嗣子となる。安政5年11月4日、養父長訓の本家相続に伴って青山内証分家(広島新田藩の別称)の家督を継いだ(この後、弟の元次郎は阿部家を継ぎ、雪年(ゆきとし、1861-1936)は同様に長訓の養子、長道(ながみち、1865-1886)は自身の養子となったため、最終的には末弟の養長(やすなが、1872-1941)が懋昭の跡を継ぐこととなった)。従五位下石見守に任官し、後に近江守に改めた。なお新田藩主在任中は初名の長興(ながおき)を名乗っていた。 文久2年(1862年)12月24日、今度は宗家の当主となった長訓(茂長)の養嗣子となり、青山内証分家の家督は従弟の浅野長厚(正室は長勲の姉妹)に譲った。通称を紀伊守に改める。文久3年(1863年)2月11日、従四位下侍従に任官し、将軍・徳川家茂より偏諱を授与されて茂勲(もちこと)に改名した。元治元年(1864年)4月28日、左少将に任官した。 幕末期の動乱の中で養父の補佐を務め、江戸幕府と朝廷間の折衝に尽力した。 芸州広島藩は頼山陽の尊皇思想を柱に平和的に倒幕を行う方向で意見を一致させていた。
◆写真師・鈴木 真一(初代) (すずき しんいち)
本名は高橋勇次郎。 天保 6 年、高橋文左衛門の三男として生まれる。 高橋家は代々、農業と漁業の兼業の家であった。 天保 8 年、父、母が相次いで亡くなり、家を継いだ長兄を助け、家業を手伝った。 安政元年、下田(大工町)の資産家で質物と荒物商・鈴木與七(屋号・大坂屋)の婿養子となる。 安政元年 11 月 4 日、安政の大地震が起こり、鈴木家は甚大な被害を受け財産を失った。 のち、旧宅の瓦礫を取り除いている時、義父・鈴木與七が土中に埋めた小判等が流失を免れて出てきた。 これを元手に家は修造し、また雑貨商を営むことになるが、あまりうまく行かなかった。 のち、養蚕業に転じたが、一時的な儲けに終わった。 慶応 3 年(2 年とも)、単身で横浜に出る。 下岡蓮杖と知り合いであったため、横浜で下岡蓮杖の元へ訪ね、弟子となった。 横山松三郎と共に、下岡蓮杖の手助けをしながら写真術を学ぶ。 明治 6 年、独立し、横浜弁天通六丁目弁天橋前と本町の三叉路に開業。 明治 7 年、下岡蓮杖の門下・岡本圭三が長女・のぶの婿となる。 (岡本圭三は、後の二代目鈴木真一) 明治 7 年、北白川宮、小松宮を撮影。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に皇族の肖像写真等を出品し、花紋章を受章。 明治 12 年、金井弥一が学んでいる。 明治 14 年、東京麹町区飯田町二丁目五十三番地(九段坂)に支店を開業し、岡本圭三に任せた。 岡本圭三に 2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗った。 明治 15 年、田中美代二が学んでいる。 明治 16 年、成田常吉が学んでいる。 明治 17 年、横浜真砂町一丁目一番地に本店を移転。 この頃、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けの商品として販売した。 また、風景写真と人物や、人物写真 2 点を合成した「ハテナ写真」が評判となった。 明治 30 年、隠居し、長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一)と重なることとなった。 明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。 隠居後は礫庵久米仙人と称して、東京小石川小日向台町「礫庵」で過ごす。 大正 7 年、死去。 なお、写真館(九段坂)はのちに佐藤福待(中島待乳の弟子)が購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。