【メディア掲載】伝説の剣客、刀を腰に 没後140年、紀州藩・橘内蔵介の写真発見(2021年2月1日『毎日新聞』 )

伝説の剣客、刀を腰に 没後140年、紀州藩・橘内蔵介の写真発見
伝説の剣客、刀を腰に 没後140年、紀州藩・橘内蔵介の写真発見

伝説の剣客、刀を腰に 没後140年、紀州藩・橘内蔵介の写真発見

幕末から明治維新の動乱期、伊勢国(いせのくに)徳川御三家である紀州藩の田丸領(三重県玉城町)で生涯を終えた伝説の剣客、橘内蔵介(たちばな・くらのすけ)(1820~80年)の肖像写真が見つかった。【尾崎稔裕】

 内蔵介は、江戸藩邸へ招かれ、14代将軍に就く直前の慶福の前で剣技を披露するほどの武芸者で、3000人を超える門弟がいたとの伝承も残る。だが、没後140年を過ぎた現在、道場を構えていた地元でも存在を知る人は少ない。

 写真は名刺大。セピア色に変色しており、紋付き袴(はかま)姿の内蔵介が、刀を腰に差して椅子に座っている。内蔵介の近親者が、内蔵介の死後、知人に送ったとみられる。写真の裏には、廃刀令(1876年)以前の明治初年に撮影したため、帯刀した姿であることや、没後は家も財産もなく、遺品代わりに写真を送る旨が墨で筆書きされている。

 古写真や明治の写真師を研究するウェブサイトのデータベース「『幕末・明治の写真師』総覧」を管理・運営する管理者が古写真市場に出品されているのを見つけて入手した。どういった経路で出品されたかは不明という。

 玉城町教委の田中孝佳吉学芸員によると、紀州藩は徳川御三家にありながら「尊皇思想」が定着しており、鳥羽伏見の戦いにも幕府の要請に従わず出兵していない。幕府側として新政府側と戦うか、藩存続のために薩長側につくかで藩論も割れたという。

 紀州藩田丸領や周辺の郷土史に詳しく、玉城町史(2005年3月発行)の編集リーダーを務めた三重県多気町在住の海住春弥さん(94)は「当時は著名だった剣客の内蔵介が、徳川瓦解(がかい)を、紀州藩の内側から、どう見ていたかは興味深い。だが、新たな史料が発見されない限り、知る手立てはないだろう」と語る。「内蔵介は、藩政そのものには関与していない。それだけに公文書史料が極めて少ないことが惜しまれる」と海住さんは話している。

 ◇橘内蔵介正以(たちばな・くらのすけまさゆき)

 剣、居合、杖、長刀(なぎなた)を含む総合古武道柳剛(りゅうごう)流師範。中津浜浦(現・三重県南伊勢町)出身。玉城町史などによると、10歳ごろから柳剛流を学び、14歳で田丸領物頭同心を務める橘家の養子となった。幼少時から「偉丈夫、剛直、謹厳」。紀州藩主の慶福が将軍家茂となる5カ月前、39歳の内蔵介は江戸藩邸に招かれて剣技を披露。家老邸での他流試合で勝ち抜き、帰国後は田丸城の剣術指南役を務めた。各地に13カ所の道場を開いたという。1880年11月死去。