【古写真の調査後売却】第19代内閣総理大臣・原敬(白黒、台紙無し)

【古写真の調査後売却】第19代内閣総理大臣・原敬(白黒、台紙無し)

◆原敬
日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられるケースもある(原敬記念館、『原敬日記』など)。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長にも就いていた。明治3年(1870年)1月、盛岡藩の藩校「作人館」に入った。翌年12月には上京し、藩の青年のために設立された学校「共慣義塾」に入学した。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)4月、無料のカトリック神学校に移った。明治6年(1873年)4月には洗礼を受け、「ダビデ」の洗礼名を受けた。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した。新潟から戻った原は明治8年(1875年)6月分家して戸主となり、平民籍に編入された。分家の理由ははっきりしないが、戸主となれば兵役義務から免除されることと関連があるのではないかと前田蓮山は指摘している。生家も既に士族ではなかった。原敬記念館館長の説明によると、戊辰戦争で新政府軍に敵対した盛岡藩は賠償金を支払うことになり、原家も土地・屋敷や家財を売却し、菓子商売などで生計を立てることになった。原の上京費用もこうして捻出したという。分籍した際の戸籍謄本が記念館に保存されており、そこには(士族ではなく)士農工商の「商」と記載されている。こうした変遷を経たものの、原は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。