【古写真の調査後売却】横須賀海軍施設ドック内・第一号型水雷艇(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】横須賀海軍施設ドック内・第一号型水雷艇(鶏卵紙、台紙貼付)

◆水雷艇
各国海軍で使用されていた水雷装備で敵を攻撃する小型艦艇である。日本では通常、魚雷を主兵装とする魚雷艇とは区別されるが、水雷艇を魚雷艇ということもある。初期の水雷艇が装備していた水雷装備は魚雷ではなく、現在の機雷に近い外装水雷と連鎖水雷であった。南北戦争では、両軍により水雷艇が運用され、アメリカ連合国海軍が建造した半没式水雷艇のCSS デイヴィッドは、装甲艦USS ニューアイアンサイズに大きな損害を与え、アメリカ合衆国海軍は汽船に外装水雷を取り付けて使用し、装甲艦アルバマールを撃沈している。世界初の近代的な水雷艇は1873年にイギリスのソーニクロフト社がノルウェー海軍の注文により建造したラップ (Rap) であったが、当初は魚雷は搭載されず、外装水雷を装備していた。1876年にはイギリス海軍初の水雷艇であるHMS ライトニング(HMS Lightning) が建造されている。その後、自走式の水雷兵器である魚雷が開発されると水雷艇は安価で強力な兵器とされ、高価な大型戦闘艦を購入できない経済力に乏しい国の海軍に導入された。水雷艇による最初の実戦は、当時水雷艇母艦の艦長であったステパン・マカロフによって、1878年1月14日に行われた。初期の水雷艇は小型のため大型艦に搭載して運用することもでき(艦載水雷艇)、またフランスのフードルなど多数を搭載する専用の水雷艇母艦も建造された。大日本帝国海軍では1880年にイギリスのヤーロー社に4隻の水雷艇を発注したのが最初の導入である。完成した形での水雷艇には外洋航海能力がないため、1881年に分解された状態で日本に運ばれ、横須賀造船所で組み立てられた。外装水雷の船で排水量40トン、全長29.4mの小型艦であったが、430馬力エンジンで17ノットの高速を発揮した。日本では1894年の日清戦争までに24隻の水雷艇が配備され、威海衛攻撃に投入された。1904年までにさらに65隻が配備され、日露戦争のころまでにわずか24年ほどで89隻もの水雷艇を配備するまでに成長した。そして日本海海戦などでも積極的に水雷艇を作戦に投入し戦果を上げた。

◆第一号型水雷艇
日本海軍の水雷艇。同型艇4隻。日本海軍水雷艇の文字通りの第1号である。明治10年(1877年)頃の日本はまだ新興の弱小海軍でしかなく、当時の大国清の艦隊に対抗するために水雷艇を導入、1880年(明治13年)に第1号をヤーロー社に発注した。これはソーニクロフト社がノルウェー海軍の水雷艇「ラプス(Raps)」を完成させたのが1873年(明治6年)であり、イギリス最初の水雷艇「ライトニング(Lightning)」建造が1877年(明治10年)で、それからわずか3年、世界的に見ても早い導入だった。続いて2,3,4号の3隻もヤーロー社に注文、組立は4隻とも横須賀造船所で行い第1号は1881年(明治14年)に、残りの3隻はやや遅れて1884年(明治17年)に竣工した。速力は17ノットの計画であったが14ノット強しか出ず、また完成した時には諸外国の水雷艇は20ノットに達しようとしていた。兵装は外装水雷を艦首に装備していた。日本海軍の魚雷導入は1882年(明治15年)にオーストリア・シュワルツコッフ社に朱式魚雷50本を初めて発注、第1号型には1885年(明治18年)に旋回式魚雷発射管が装備された。1894年(明治27年)の日清戦争では既に2線級であったため内地の警備に当たり、1899年(明治32年)に4隻とも除籍された。

◆横須賀海軍施設ドック
神奈川県横須賀市の在日アメリカ海軍横須賀海軍施設内にあり、米海軍および海上自衛隊の艦艇修理に使用されている6基の乾ドックである。最古の1号ドックは横須賀造船所時代の明治4年(1871年)に完成しているが、現在もなお使用されている。最大の6号ドックは大和型戦艦の建造ならびに修理・改造を行うことを目的とし、昭和15年(1940年)に完成したドックであり、現在は米海軍空母の修理などに使用されている。また当記事ではドックの付帯設備であるクレーン、ポンプ室等についても必要に応じて説明を加えていく。開国後、江戸幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった。そのような中で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まっていった。江戸幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗忠順、レオン・ロッシュらが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設された。そして艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、慶応3年(1867年)にドライドックの建設が開始された。現在の横須賀海軍施設1号ドックである。大政奉還から王政復古の大号令に至る一連の流れにより江戸幕府が廃され、明治政府が成立するが、横須賀造船所の建設は幕府時代と同様に進められることになった。1号ドックは明治4年(1871年)に完成し、引き続き3号ドック、2号ドックが建設された。1号ドック、3号ドックの建設時まではレオンス・ヴェルニーなどフランス人技術者のもとでドック建設が進められていたが、2号ドックについては設計段階ではフランス人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成へと導いた。その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。横須賀造船所は組織改革などを経て、横須賀海軍工廠となり、日本の海軍力増強に伴い規模の拡大が進んだ。そのような中、明治38年(1905年)には軍艦の大型化に対応した4号ドックが完成し、さらに大正5年には第5号ドックが完成した。5号ドックは当時激しさを増していた列強の建艦競争の中、完成直後に延長工事が行われることになり、大正13年(1924年)に延長工事は完成した。なお4号ドックも昭和3年(1928年)に艦艇の大型化などに対応するために延長工事が開始され、翌昭和4年(1929年)に完成した。日本は昭和9年(1934年)にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、その結果激しい海軍の軍拡競争が行われることになった。そのような中、昭和10年(1935年)に大和型戦艦の建造および改修、修理が可能な大規模なドックとして、6号ドックの建設が開始され、また昭和11年(1936年)には、明治初年に完成した1号ドックの延長工事が行われた。6号ドックは昭和15年(1940年)に完成し、6号ドックを使用して当初大和型戦艦の三番艦となる予定であった信濃が建造されたが、進水後呉海軍工廠へ回航される途中、米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃を受け沈没した。なお、4号ドックでは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)にかけて再延長工事が行われ、1号から6号ドックは現在の規模となった。終戦後、横須賀海軍工廠は連合軍に接収されることになり、1号から6号ドックもまた接収された。昭和22年(1947年)には米海軍艦船修理廠が発足し、各ドックではアメリカ海軍艦船の改修、修理が行われるようになった。特に横須賀が米第七艦隊の事実上の母港として空母の配備が開始されると、最大の6号ドックでは米空母の改修、修理が行われるようになった。平成末期の現在も、明治初年に完成した1号ドックを始めとする、戦前に造られたドライドックでは米海軍、海上自衛隊の艦船の改修、修理が行われ続けている。嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府は浦賀にて鳳凰丸の建造を開始し、その後も艦船の建造を継続し、さらに欧米各国から艦船の購入を進めた。

◆横須賀造船所
江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われる。幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順の進言により、フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所として開設される。その後造船所とするため施設拡張に着手したが幕府が瓦解。明治新政府は参与兼外国事務掛小松帯刀の尽力により1868年9月にオリエンタル・バンクから貸付を受け、ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済し、横須賀製鉄所を接収。これを1871年に完成させた。1871年(明治4年)4月9日、工部省管轄中に横須賀製鉄所から横須賀造船所への改称が行われた。 1872年10月に工部省から海軍省の管轄になり、1876年8月31日には海軍省直属となり、1884年には横須賀鎮守府直轄となる。1903年には組織改革によって横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造した。第二次世界大戦後は在日米軍の基地となっている。幕末に造られたドックが残っており、造船は行っていないものの艦船の修理に使用されている。造船で幕末から2000年(平成12年)まで活躍したスチームハンマーが横須賀市内のヴェルニー公園内にあるヴェルニー記念館に展示されている。また横須賀港の歴史は横須賀中央駅近くの自然・人文博物館で学ぶことができる。造船所内には技術者養成のための教育機関「黌舎」が設けられた。ヴェルニーを校長に、明治3(1870)年に、ヴェルニーの母校であるパリの技術者養成学校「エコール・ポリテクニク」を模範として設立され、造船技術や機械学、製図法などの技術のほか、フランス語を教授した。入学資格は原則として13歳から20歳までで、衣食住は官給制であった。技手らを養成する「職人黌舎」と呼ばれる学校も併設され、明治10年代以降は多くの職人生徒も入学するようになった。1888(明治21)年に閉校するまで、約100人が卒業し、海軍省や大蔵省、外務省などへの入省者が多かったことや、100人に数人程度しか入学が認められなかったことからエリート学校とも評されていた。出身者には恒川柳作や辰巳一をはじめとしたエリート技師のほか、海軍省から横浜正金銀行リヨン駐在員となり、『八十日間世界一周』の初邦訳者としても知られる川島忠之助などがいる。黌舎はのちに工部大学校に吸収され東京帝国大学工学部造船学科となり、日本の造船技術をリードした。