
東本願寺は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)の東に位置することに由来している。正式には真宗本廟という。 2020年7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定される。東本願寺(真宗本廟)は、包括宗教法人である「真宗大谷派」に包括される単位宗教法人(被包括宗教法人)ではなく、法人格を有していない。大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。
真宗大谷派は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である。 阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とする。大谷派の根本道場である東本願寺を、所属するすべての寺院および教会の本山とする。2018年12月31日現在の被包括宗教団体数は8,638。大派、お東の通称がある。宗教法人の事務所は、「真宗大谷派宗務所」と称し、京都市下京区烏丸通七条上る常葉町754番地に置く。法人の代表役員は、宗務総長が務める。浄土真宗系の教団で結成する「真宗教団連合」に加盟し、加盟団体と相互の連絡・提携を取る。また同連合の事務総局は2年ごとに移管し、真宗大谷派宗務所と浄土真宗本願寺派宗務所が交代で担当する。宗派名は、「浄土真宗本願寺派」との区別の便宜上、大谷派は「お東」「大派」、本願寺派は「お西」「本派」と通称される。同様に、本山の通称[8]である「東本願寺」を宗派名の意で用いる場合もある。但し寺号として正式に「東本願寺」を用いるのは東京の浅草にある東本願寺(台東区)(旧東京本願寺)である。 真宗大谷派は「本願寺」を解散させたため、寺院としての「東本願寺」ではなく宗派の礼拝所としての「真宗本廟」としている。 また、宗派の通称として本願寺派を西本願寺派と、大谷派を東本願寺派と俗用されていることがあるが、この表現を用いないのも大谷派と東本願寺派との混同を防ぐことになっている。
大谷光勝は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如」。東本願寺第二十一代法主 。真宗大谷派管長。文化14年3月7日(1817年4月22日 )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。天保12年(1841年)4月6日、法嗣(法主後継者)である長兄・寶如が死去。同年12月10日、寶如の死去により法嗣となる。法名を「嚴如」と改める。弘化3年(1846年)5月22日、父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。元治元年(1864年)、禁門の変により仮堂宇が消失する。明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。明治5年(1872年)3月、華族に列せられる。同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。同年、大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。明治14年(1881年)、公式の宗派名が「真宗大谷派」と定まる。明治22年(1889年)、現如に法主を譲り退隠する。法在職期間は、43年。院号を「眞無量院」とする。明治27年(1894年)1月15日、78歳にて死去。