【古写真の調査後売却】山梨甲府・山門と旅館(旅籠)のある風景(大判、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】山梨甲府・山門と旅館(旅籠)のある風景(大判、台紙貼付)

甲府市は、山梨県の国中地方に位置する市。山梨県の県庁所在地で、中核市に指定されている。一条小山の甲府城築城は徳川氏の関東転封に伴い、豊臣氏の大名である加藤氏、浅野氏等に引き継がれる。甲府城は慶長5年(1600年)に完成し、城下町も建設されて新府中(下府中)が形成され、内郭部には武家が集住し、外郭部には町人地となる。古府中(上府中、元府中)には商人町や職人町となる。甲府城下町は上府中26町、下府中23町で構成され、中心は人口の集中する下府中であった。町政は町奉行のもと、町人を代評する町年寄にあたる検断が町政運営を担い、各町を代表する長人(名主)がその指揮に従った。江戸時代には徳川家康の9男徳川義直、徳川家光の弟の徳川忠長、家光の三男の徳川綱重、六代将軍となる徳川家宣等徳川氏の一族が領主となった。例外として五代将軍徳川綱吉の側用人である柳沢吉保・吉里父子が領主となった。甲府は各支配者により整備され城下町として発展するが、享保9年に将軍吉宗の主導する享保の改革の一環として甲斐一国の幕府直轄領化が実施され、甲府勤番城の守護と城下の政務を担うと、武家人口の低下や在方経済の伸長の影響を受けて、江戸中期には甲府の人口は減少している。近世後期には城下の大通りを幕絵で飾る甲府道祖神祭礼が開始され、歌川広重をはじめとする人気浮世絵師が幕絵を手がけた。明治には初代公選知事として赴任した藤村紫朗が、殖産興業と並行して甲府市街の開発を行い、勧業製糸場をはじめ「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築で統一された諸施設が整備された。1945年(昭和20年)7月7日には甲府空襲(たなばた空襲)に見舞われたが、戦後には市域へも工業団地の造成が進み、高度経済成長期には機械工業都市としても発展する。また、交通機関の整備により観光が主要産業となり、自然や歴史的資源など観光資源に着目した町づくりを行っている。