【古写真の調査後売却】香淳皇后産婆・坂田明の肖像(鶏卵紙、写真師、鈴木真一、堀真澄)

【古写真の調査後売却】香淳皇后産婆・坂田明の肖像(鶏卵紙、写真師、鈴木真一、堀真澄)

◆坂田 明
1874年、坂田警軒の四女として興譲館で生まれた。明治20年(1887)、神戸女学院で学び、さらに専門的学問を習得するために、上京し、東京の濱田助産婦学校で学ぶ。東大医学部産婦人科で勤務した後、明治40年9月独立して東京の赤坂に助産婦業を開業する。技術が秀でており、良い産婆さんとして知られていたばかりではなく、坂田警軒の娘として教養も高く、理性と情操豊かな夫人としても知られていた。 大正14年に宮内省の嘱託となり、香淳皇后陛下のお産に携わり、平成天皇(明仁上皇)をはじめ常陸宮など多くの宮様を取り上げた。その後、奈良県の長谷寺が経営をしている長谷寺産院に勤め、生涯を助産婦の道に捧げた。

◆坂田警軒
明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。明治23年(1890年)に岡山県選出で第1回衆議院議員総選挙に当選(以後2回当選)。明治26年(1893年)には東京に移り、慶應義塾及び高等師範学校で講師を務めた。死没に際して従五位に叙される。
写真師の山本讃七郎は明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露。初めて写真を見た。 

◆写真師・鈴木 真一(初代)
本名は高橋勇次郎。 天保 6 年、高橋文左衛門の三男として生まれる。 高橋家は代々、農業と漁業の兼業の家であった。 天保 8 年、父、母が相次いで亡くなり、家を継いだ長兄を助け、家業を手伝った。 安政元年、下田(大工町)の資産家で質物と荒物商・鈴木與七(屋号・大坂屋)の婿養子となる。 安政元年 11 月 4 日、安政の大地震が起こり、鈴木家は甚大な被害を受け財産を失った。 のち、旧宅の瓦礫を取り除いている時、義父・鈴木與七が土中に埋めた小判等が流失を免れて出てきた。 これを元手に家は修造し、また雑貨商を営むことになるが、あまりうまく行かなかった。 のち、養蚕業に転じたが、一時的な儲けに終わった。 慶応 3 年(2 年とも)、単身で横浜に出る。 下岡蓮杖と知り合いであったため、横浜で下岡蓮杖の元へ訪ね、弟子となった。 横山松三郎と共に、下岡蓮杖の手助けをしながら写真術を学ぶ。 明治 6 年、独立し、横浜弁天通六丁目弁天橋前と本町の三叉路に開業。 明治 7 年、下岡蓮杖の門下・岡本圭三が長女・のぶの婿となる。 (岡本圭三は、後の二代目鈴木真一) 明治 7 年、北白川宮、小松宮を撮影。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に皇族の肖像写真等を出品し、花紋章を受章。 明治 12 年、金井弥一が学んでいる。 明治 14 年、東京麹町区飯田町二丁目五十三番地(九段坂)に支店を開業し、岡本圭三に任せた。 岡本圭三に 2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗った。 明治 15 年、田中美代二が学んでいる。 明治 16 年、成田常吉が学んでいる。 明治 17 年、横浜真砂町一丁目一番地に本店を移転。 この頃、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けの商品として販売した。 また、風景写真と人物や、人物写真 2 点を合成した「ハテナ写真」が評判となった。 明治 30 年、隠居し、長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一)と重なることとなった。 明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。 隠居後は礫庵久米仙人と称して、東京小石川小日向台町「礫庵」で過ごす。 大正 7 年、死去。 なお、写真館(九段坂)はのちに佐藤福待中島待乳の弟子)が購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。

◆鈴木 真一(二代)=岡本圭三
初代・鈴木真一の娘婿。2代目鈴木真一を襲名する。本名は岡本圭三。岡本圭三は上州勢多郡の農家の三男。下岡蓮杖の門下であった。明治7年、鈴木真一(初代)の娘(長女)のぶの婿となった。 しばらくして夫婦で名古屋本町に移り、写真館を開業。 明治 12 年、宮下欽に写真館を譲る。なお、2代目鈴木真一と妻(初代鈴木真一の娘)、宮下欽は、名古屋ハリストス正教会で洗礼されている。初代鈴木真一の援助を受けて米国サンフランシスコに渡り、最新の技術を学んだ。 明治 14 年、帰国。 鈴木真一(初代)は、東京麹町区飯田町 2-53 に支店(写真館)を開業し、運営を岡本圭三に任 せた。 岡本圭三に2代目鈴木真一の名前を継がせた後、初代鈴木真一は鈴木真と名乗った。 明治 30 年、初代が隠居し、初代の長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 鈴木伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一と名乗っている)と重なることとなった。明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。明治17年、真砂町(本町)1丁目に移り新築のモダンな洋風建築で息子の金次郎と外国人客相手の営業と国内の顧客を拡大。女子美術学校の写真学科増設に賛同したが計画が見送られる。そのため弟子の河村勇次とともに牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立。明治期の女性に写真術を教える唯一の教育機関であった。明治22年、宮内省御用掛として採用され、英照皇太后、昭憲皇后の肖像写真を撮るため皇居内に写真室を立てるよう進めて認められている。明治39年、 磯長海洲が セントルイス博覧会を視察した際に帰途中で日本に立ち寄り、写真師・鈴木真一(2 代目)か ら陶器写真の技法を学んでいる。 1912年死去。なお、著名なキリスト教神父・柴山準行を通して2代目鈴木真一と妻(初代鈴木真一の娘)、 宮下欽と妻、水谷鏡が名古屋ハリストス正教会の信者となり入会している。

堀真澄(初代)
堀家の祖先は岐阜本巣郡軽海村出身という。父の名は不明だが、父の代に京都に出ている。幼名は堀松次郎、別名は大坂屋與兵衛、保利與平衛、月の家真澄。 商家の長男として生まれる。 天保 9 年頃、大阪の回船問屋に奉公し、後に大坂屋と号し京都丸太町で硝子製造業を始めた。 模造砂金石を硝子で製造する事を発明。文久 2 年、辻 禮輔明石博高亀谷徳次郎に写真化学を学ぶ。 文久 3 年、紙写真法(国産の鶏卵紙)を研究して紙焼きに成功。 元治元年、寺町通りで写真館・西洋伝法写真処を開設。 後藤象二郎や新島襄なども撮影に訪れた。 慶応元年(2 年とも)、祇園町(寺町通仏光寺下ル)に支店を開設。 慶応 3 年、仁和寺宮環俗を撮影の際に、「月の家真澄」の名を贈られた。 明治維新後、舎密局に勤務。 明治 5 年、息子の松之助(のち 堀真澄二代目 )に写真術を教えている。 明治 9 年、舎密局御用掛。 明治12年、京都の写真師による「同業親睦会」開催準備があり、吉田佐兵衛辻精一郎安平治角倉玄遠鎌田永弼舟田有徳酒井虎逸長谷川清之進、津田境(津田新太郎と同一人物か?)が参加している。明治13年、1月9日、京都の写真師による第一回親睦会が円山左阿弥樓で開催され、市田左右太藤井圏蔵安平治橋垣**舟田有徳堤董子吉田佐兵衛長谷川清之進三品**酒井虎逸堀真澄津久間**角倉玄遠鎌田永弼辻精一郎小寺準之助成井頼佐(または成井秀廿)、堀内信重野田**桂氏丸が参加している。 明治 13 年、第 9 回京都府博覧会の品評方(審査員)を務めた。 明治 13 年、死去。 事業は長男(堀真澄二代目)に継承された。

堀真澄(二代)
幼名は堀松之助。 明治 5 年、父の初代堀真澄から写真術を学ぶ。 明治 8 年、大津の能仁儀道(明治中期、大津で仏教関連の本を出版しているため僧侶と思われるが、詳細は不明)に師事。 明治 9 年、京都府舎密品誤用を拝命。 明治 13 年、父が死去し、跡を継ぐ。京都の宮家、華族の御用を務めた。 明治 20 年(25 年とも)、洋風の写真館を新築。 明治 28 年、第 4 回内国勧業博覧会に出品し、有効 2 等賞を受賞。 明治 28 年、堀与一郎(のち 3 代目堀真澄)が学び始める。 明治 40 年、平塚の日本乾板株式会社の創立に参画。 明治 44 年、死去。

堀真澄(三代)
本名は堀与一郎。 明治 28 年、父(堀真澄・二代)から写真術を学んだ。 明治 43 年、宮内省匠寮から京都御所誤用写真師を拝命した。 明治 44 年、父の死に伴って家業を継ぎ、3 代目を襲名。 明治 44 年、京都の同業者と京都写真師組合を設立し、組合長となる。大正 4 年、大正天皇即位の大礼を撮影。