
大礼服
明治時代から昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結までの日本において使用されていた、エンパイア・スタイルの宮廷服(court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備・確立された、いわゆる「大日本帝国の服制」における最上級の正装であった。皇族や華族(有爵者)および文官などの大礼服は諸法令により制式が定められていた。文官大礼服は明治5年11月12日太政官布告第339号により定められた。しかし、その前に日本を出発し、制定のための事情調査も行っていた岩倉使節団(担当は林董)は、ヴィクトリア女王との謁見のスケジュール上デザインの最終決定を待つことが出来ず、それまでの本国とのやり取りを基に滞在先のイギリスで大礼服の製作を始めてしまった。しかし、使節団から報告されたこの大礼服は、技量が未熟だった当時の日本の洋服店では作成することが出来ないと判断され、その通りのデザインは採用されなかった。そのため、太政官布告の大礼服は使節団のものとは大きく異なっていた。また、この布告は法令としての書式も未熟なものであり、細部についての取決めが不充分なこともあって作制者による違いが見られた。更に服制自体にも問題があった。勅任官の袴(ズボン)は白とされていたが、ヨーロッパでは白ズボンは特別な儀礼の際のみに用いられるものであった。このことは、岩倉使節団がドイツを訪問した際にはビスマルクにまで指摘されている。そのため、明治10年9月18日太政官第65号達により上衣と同じ黒羅紗製との併用とされた。このようなことから、文官大礼服は明治19年12月4日宮内省達甲第15号により改正された。この改正では斉一を図るため、詳細な服制表や図が官報に掲載され、関係業者には色刷りの見本図が配布された。この改正は奏・勅任官大礼服の改正であり、判任官の大礼服は対象とされておらず、消滅したものと見なされている。その後、明治25年12月10日宮内省達甲第8号の小改正により、奏任官の側章が変更された。また、昭和6年10月付の内閣書記官長川崎卓士と陸軍次官杉山元の書簡のやり取り(昭和6年10月6日内閣閣甲第97号及び昭和6年10月15日書記官1第2013号 「文官大礼服制改正ニ関スル件」)からは、宮内官制服令の昭和3年改正に伴い、文官大礼服も改正することが検討されていたことが窺える。戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号)、宮内省達は「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。
◆写真師・樋口 桃雲
明治元年、横浜で写真を学ぶ。明治 10 年、甲府櫻町で開業。 明治 30 年、瀧田長八が学んでいる。 明治 43 年、山梨写友会が発足し、会長となる。 門人の野々垣鹿太郎は幹事。大正 15 年、死去。