

1923年(大正12年)に岩の原葡萄園を訪れた昭和天皇の皇后、香淳皇后生家の久邇宮一家。右から2人目が後に香淳皇后となる久邇宮良子女王。
◆写真師 小熊彌一
当時の写真館(建物)が、明治村に保管されている。開業地: 新潟(北越柏崎会田)
◆久邇宮邦彦王
日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇后)の父。第125代天皇・明仁の外祖父、第126代天皇・徳仁の曽祖父にあたる。
◆邦彦王妃俔子
日本の皇族。久邇宮邦彦王の妃。島津忠義公爵令嬢。香淳皇后の母。上皇の外祖母。今上天皇・秋篠宮文仁親王・黒田清子の曾祖母。姉は黒田長成侯爵夫人・清子、松平直亮伯爵夫人・充子、山階宮菊麿王妃常子、徳川達孝伯爵夫人・知子、久松定謨伯爵夫人・貞子。妹は徳川家正公爵夫人・正子、徳川頼貞侯爵夫人・為子。弟は第30代島津家当主島津忠重、旧佐土原藩主で孫である島津貴子の夫の島津久永の父に当たる島津久範ら。
◆香淳皇后
日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位:1926年〈昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は良子(ながこ)。お印は桃。久邇宮家の出身で生まれながらの皇族であり、名と身位は「良子女王」と称しており、昭和天皇との成婚以前も敬称は「殿下」であった。1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、第一皇男子の皇太子明仁親王(現上皇)が第125代天皇に即位してその妃美智子が立后して皇后となったことに伴い、自身は皇太后となった。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、藤原寛子(後冷泉天皇后)の数え年92歳を抜いて神代を除いては歴代最長寿となった。2000年(平成12年)6月16日に崩御し、天皇明仁(当時)勅定により「香淳皇后」と追号された。夫たる昭和天皇が神代を除いた歴代天皇のうち最長在位であるように、香淳皇后自らも歴代皇后の中で最長の在位(62年と14日間)であり、神代を除き最長寿(満97歳没)である。2021年(令和3年)時点で存命の皇室構成員のうち、明仁(第125代天皇、上皇)・正仁親王(常陸宮)の生母、徳仁(第126代天皇・今上天皇)・秋篠宮文仁親王(皇嗣)の父方の祖母、愛子内親王・眞子内親王・佳子内親王・悠仁親王の曾祖母にあたり、皇位継承権を有する3人の親王(秋篠宮文仁親王・悠仁親王・常陸宮正仁親王)の女系(母系)も含めた最近共通祖先にあたる。また、令和時代(2019-)における現在、伏見宮の血統に属する皇族出身である最後の皇后かつ皇太子妃である。1904年(明治37年)3月30日午前3時、久邇宮邦彦王と同妃俔子の間に次女として誕生[1]。同年4月5日に信子と命名された。久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉良子女王と妹智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。信子女王と智子女王は良子女王に心酔し、姉宮の一挙手一投足を真似るほどだった。1918年(大正7年)1月に良子女王と皇太子裕仁親王との婚約が内定すると、良子女王は久邇宮邸内に建設された学問所で教育を受けるようになり、良子女王の学友2名と、妹宮である信子女王と智子女王の2名も、共に教育を受けた。信子女王自身は、1924年(大正13年)12月9日に、三条西実義伯爵の嫡男三条西公正(1901年(明治34年) – 1984年(昭和59年)に降嫁した。1936年(昭和11年)9月9日、婦人教化団体である大日本連合婦人会の理事長に推され受諾した。翌1937年(昭和11年)9月11日、会長就任依頼を受諾。同会は1941年(昭和16年)末に解散を決議し、翌年2月に大日本婦人会に統合された。同時期には、吉岡彌生とともに国民精神総動員中央連盟の評議員も務めた。1945年(昭和20年)11月8日に逝去した(享年41)。これに伴い、実姉の香淳皇后をはじめ皇族・王公族が喪に服した。
◆三条西 信子
日本の元・皇族、華族。三条西公正は夫。香淳皇后の妹にあたり、第125代天皇明仁の叔母、今上天皇の大叔母。旧名は信子女王。1904年(明治37年)3月30日午前3時、久邇宮邦彦王と同妃俔子の間に次女として誕生。同年4月5日に信子と命名された。久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉良子女王と妹智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。信子女王と智子女王は良子女王に心酔し、姉宮の一挙手一投足を真似るほどだった。1918年(大正7年)1月に良子女王と皇太子裕仁親王との婚約が内定すると、良子女王は久邇宮邸内に建設された学問所で教育を受けるようになり、良子女王の学友2名と、妹宮である信子女王と智子女王の2名も、共に教育を受けた。信子女王自身は、1924年(大正13年)12月9日に、三条西実義伯爵の嫡男三条西公正(1901年(明治34年) – 1984年(昭和59年)に降嫁した。1936年(昭和11年)9月9日、婦人教化団体である大日本連合婦人会の理事長に推され受諾した。翌1937年(昭和11年)9月11日、会長就任依頼を受諾。同会は1941年(昭和16年)末に解散を決議し、翌年2月に大日本婦人会に統合された。同時期には、吉岡彌生とともに国民精神総動員中央連盟の評議員も務めた。1945年(昭和20年)11月8日に逝去した(享年41)。これに伴い、実姉の香淳皇后をはじめ皇族・王公族が喪に服した。
◆大谷 智子
日本の元・皇族。華族。旧名は智子女王。お印は萩。東本願寺第24世法主・大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。院号は歌徳院。法名は如智禅尼。香淳皇后の実妹、上皇の叔母、今上天皇の大叔母にあたる。1906年(明治39年) 9月1日、久邇宮邦彦王の第3王女として東京府で生まれ、学習院初等科を卒業。浄土真宗の宗祖親鸞の末裔で東本願寺の住職を世襲した大谷家(伯爵家)の法嗣(法主後継者)・大谷光暢と婚約し12歳で京都へ移る。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、 1924年(大正13年)5月3日、大谷家に降嫁した。仏教精神に基づく女子教育を願い、1939年(昭和14年)に光華女子学園を創設し、総裁に就任。さらに、大谷婦人会会長や全日本仏教婦人連盟初代会長を務め、また、合唱グループ「大谷楽苑」を結成し、仏教音楽の普及にも尽力した。また、大谷家と改革派の主導する真宗大谷派内局とに生じた紛争(お東騒動)においては、一貫して四男・大谷暢道(のちの大谷光道)を支持し、この紛争に重要な影響を与えたともいわれる。1989年(平成元年)11月15日、病の為に逝去。享年84(満83歳没) 。10代前半から短歌を詠み、83歳で亡くなるまで約2000首を残した。2008年、歌集「白萩の道」が出版された。