【古写真の調査後売却】台湾原住民の集合写真(鶏卵紙、台紙貼り付け)

【古写真の調査後売却】台湾原住民の集合写真(鶏卵紙、台紙貼り付け)

台湾原住民は、中国大陸からの移民が盛んになる17世紀以前から居住していた、台湾の先住民に対しての呼称。1871年(日:明治4年 / 清:同治10年)に宮古・八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、54人が台湾原住民に殺害された(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。

1895年(明治28年)、日本は台湾の領有を開始。清国時代の分類を基に日本は、原住民を「平埔族」と「高山族」に分類した。1903年(明治36年)の博覧会では日本帝国に属する民族として高山族女性が展示された(人類館事件)。原住民は抗日運動のゲリラ(土匪)ともなり、1907年に抗日事件の北埔事件が、1930年には霧社事件がそれぞれ勃発した。1935年(昭和10年)、秩父宮雍仁親王の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる部族間の共通語として機能した。

太平洋戦争中、高砂族の若者は高砂義勇隊として南太平洋の密林戦に参加し、大きな貢献を果たした。第二次世界大戦後、義勇隊参加者が日本国籍を失ったことを理由に、日本政府は障害年金などを支払わなかった。

日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は「高砂族」を、「高山族」「山地同胞」「山地人」と呼称し直し、漢民族との同化政策を進めた。原住民族が同化政策の変更を迫った結果、1980年代以降、高山族などの呼称は「原住民」に改められた。