

◆阪田悌次郎
東京帝国大学医科大学卒業、逓信医。
◆神宮徳壽
御嶽教 五代管長
◆斉藤大雅
明治17、齋藤仙也長男
大正4、九州帝大医科卒
昭和3、医学博士
九州医科大第一内科副手
内科開業医(博采堂医院)
父の齋藤仙也は安政5、旧丹後舞鶴藩医・齋藤仙雅古川男
東京外國語學校独逸語科、帝國大學医科大學に學ぶ
内科開業医
京都府医師会長、大日本医師会副会長
叔父に新宮涼閣あり
◆大井伊太郎
明治20、大井才太郎長男
東大仏法科卒
日本電気常任監査役、大六共同監査役、朝日建材取締役
父の大井才太郎は従四位勲三等
安政3、三重、大井良平長男
帝大工科卒
工学博士
逓信技師、工務課長
◆酒井広雄 不明。
◆根岸博
埼玉県北埼玉郡埼玉村出身。医者の根岸三郎の長男として生まれる。’16.12(T5)東京帝国大学医科大学卒業。卒業後は東大伝染病研究所に入所。土肥慶蔵(7-1-1-5)の東大皮膚科泌尿器科の下で東京帝国大学助教授をへて、’31(S6)岡山医科大学教授に就任。以後、’55(S30)退官までの24年間、医学教育、研究、診療または大学行政の各方面に多大な足跡を残した。 この間、戦前戦後あわせて同大学医学部付属病院長を3期6年間、評議員を歴任。’52 第51回日本皮膚科学会会頭、第40回日本泌尿器科学会会長を務めた。 研究業績は皮膚科、泌尿器科、性病の各方面にわたる。学位論文は『皮膚疾患における血液化学的研究』。それまでの病理形態学が主流を占めていた当時の皮膚科学研究分野に、他に先んじて病態生化学的思考法を導入し新風を吹き込んだ。 ’50 日本最初の腎臓移植の動物実験に成功。泌尿器科領域で泌尿器結核、尿路結石、前立腺肥大症をはじめ、犬腎臓移植による腎機能の研究では動物実験的研究の先駆となり大変優れた業績であった。
さらに考古学的ご識見をもとにした県文化財保護特別委員としての活動、ミシガン大学との国際協力による瀬戸内海沿岸地方文化の調査活動、岡山三悪追放協会会長としての性病予防運動、岡山日仏協会会長、岡山ライオンズクラブ会長、地区ガバナーを歴任されるなど多方面に社会貢献をされた。’72勲2等瑞宝章受章。享年90歳。
◆上田常吉
1887年、東京市(現・東京都)生まれ。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。 1919年に京城医学専門学校解剖学教授に就任し、1926年に京城帝国大学解剖学教授に就任。京城帝国大学では、医学部長も務めた。終戦に伴い内地に引き揚げ、1946年には帝国女子医学専門学校(現・東邦大学医学部)解剖学教授に就任。森 林太郎(森 鴎外)の長男・森 於兎も、1947年に台北帝国大学から引き揚げてこの大学で解剖学を教えていた。 1950年には奈良県立医科大学解剖学教室教授として移籍。この奈良県立医科大学には京城帝国大学の解剖学者・小浜基次が1946年から勤めていた。奈良県立医科大学時代は、1949年から「日本人の生体計測」の代表として、約4年間をかけて全国158ヶ村、56,495人もの生体計測を行っている。専門は解剖学だが、それ以外に統計学を得意とした。晩年、病気療養をしていた上田常吉は、1960年に奈良県立医科大学を退官。その後、1966年1月に死去。
◆下元連
日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、東京帝国大学(のちの東京大学)に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。大学卒業後は、大蔵省の大臣官房臨時建築課雇として採用された。その後は国家公務員たる技師として、多数の官公庁の設計に携わることになる。内閣書記官長官舎(のちの内閣官房長官官舎)、警視庁庁舎、内務省庁舎(のちの人事院ビル)、大蔵省庁舎(のちの財務省庁舎)、横浜税関庁舎、門司税関庁舎、長崎税関庁舎などのプロジェクトに携わった。大蔵省の営繕管財局工務部工務課第二製図係の係長だった際には、総理大臣官邸の設計主任を務めた。しかし、敷地内に2メートル近い段差があったことから、建物内の空間の配置に苦心することになる、また、建築資材の選定も下元が担当しており、喫煙室の内装材料以外は全て国産の資材を指定した。また、大蔵省庁舎の設計にも携わっている。しかし、当時は物資が不足し始めていたことから、1936年にいったん工事が中断され、その後小規模な工事が進められ、最終的に外壁のタイル貼りを行わないまま1943年に完成扱いとした[1]。1943年、日本建築学会の副会長に選任された[2]。同じく副会長であった北沢五郎や島田藤らとともに、会長である小林政一を支えた。太平洋戦争後は、大蔵省から戦災復興院(のちの国土交通省)に転じ、技監・営繕部部長として活躍した。戦災で荒廃した官公庁を復旧するべく、その陣頭指揮を執る。退官後は、自身の事務所として「下元建築事務所」を設立した。また、工学院大学にて工学部の教授として奉職し、後進の育成に尽力した。下元は自身の作品を振り返り、「一階の窓を丸くする」点を特徴の一つとして挙げている。具体的には、警視庁庁舎、内務省庁舎、長崎税関庁舎などが該当する。下元の代表作として知られる総理大臣官邸については、基本計画、基本設計、プラン、エレベーションを下元が担当し、それを笹倉梅太郎が製図し図面に落とし込んだという。総理大臣官邸のミミズク像やレリーフについても、笹倉が担当した。総理大臣官邸はフランク・ロイド・ライトの影響が指摘されるが、下元自身は玄関ホールのインテリアが「最もライト思想の濃い」部分だと指摘し、これらは笹倉ら若手が力を発揮した部分だとしている。下元は「ライトの模倣ではない。ライト風ではある。ライトスクールというところでしょうけれども、直写模倣はほとんどない」と述べている。また、当時の時代背景について「ライトはあの頃、やはり帝国ホテルをこしらえて、日本では非常に珍しかったし、特に若い者が相当惹かれたというのは、これは当然」と語っている。笹倉の手腕については高く評価しており、「非常にデザインのうまい男」と評している。笹倉が担当した総理大臣官邸の玄関ホールについても「細かいデザインなんか非常にライト風ですけど、よくあんな細かいものをやったものだと、今でも私は感心しております」と述べている。また、一部の建築家らが総理大臣官邸について「華やか過ぎる」「あまりにライト的である」と批判したことに対しては、迎賓機能を兼ね備えている以上は華やかさも許容されると反論している。また、批判を耳にした東京帝国大学工学部教授の佐野利器が興味を持ち、実際に検分するため現場を訪れるという騒ぎも起きたが、調査を終えた佐野が高評価を下したため下元も安堵したという。濱口政権当時、内閣総理大臣秘書官である中島矢団次から、総理大臣官邸の塀を高くするよう要請されたことがある。下元は景観上の問題点を指摘したものの、中島は警備上の観点からもっと高い塀で取り囲むべきだと主張した[3]。中島から直接要望されたこともあり、下元は塀の高さは変えずに塀の上に有刺鉄線を張り巡らせる対応を採った。下元は「塀を高くするくらいで人心をどうすることもできないじゃないか」と懸念していたが、その直後、内閣総理大臣の濱口雄幸は東京駅で佐郷屋留雄に銃撃され、その後、没している。内閣総理大臣は総理大臣公邸に常駐する方が望ましいと常々考えており、「官邸として造ったんだから、少なくとも総理大臣公人としてはそこに住まうべきものだ」との発言も残されている。特に、総理大臣公邸に居住しなかった吉田茂に対しては、「大磯あたりにいてワンマン道路を造って通う(吉田元首相のこと)なんていうのは、けしからんこと」と辛辣な批評をしている。1985年5月14日、総理大臣官邸にて、国際新聞発行者大会の出席者らを招いたレセプションが開催された。その席上、内閣総理大臣の中曾根康弘が「この首相官邸は有名なライトの設計なんですね。これは一九二〇年代の建築ですけれども、日本はそのころから世界に門戸を開いていたわけです」とスピーチした。国外からの出席者は、中曾根の説明を聴いて感嘆の声を挙げた。なお、一部の聴衆は中曾根の発言の誤りに気づいたといわれているが、その場で指摘する者は誰もいなかったため、レセプションはそのまま進行した。