【古写真の調査後売却】1887年(明治20年)フランス第9軍団大演習後に20か国の派遣将校と記念撮影。小松宮彰仁親王、坊城俊章ほか(鶏卵紙、大判台紙貼り付け)

1887年(明治20年)フランス第9軍団大演習後に20か国の派遣将校と記念撮影

◆小松宮彰仁親王
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧・久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。明治維新時には三職のうち議定となり仁和寺宮嘉彰親王と名乗っていた。安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。慶応3年(1867年)、還俗を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)と名乗る。明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。1870年(明治3年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範(そっせんすいはん)した。1890年(明治23年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられる。国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代(みょうだい)として臨席した。社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。また、1896年(明治29年)には井上円了の哲学館(のちの東洋大学)に「護国愛理」の扁額を下賜している[1]。その他、経歴の一つとして、蝦夷地(北海道)の“開拓”に清水谷侍従と共に関わっている。この事の詳細は、公文書として『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達』に記述されている。

◆花島半一郎
陸軍中尉

◆坊城俊章
日本の公家、陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。山城国京都で坊城俊克の長男として生まれ、父の養子で従兄弟の坊城俊政の養子となる。安政4年11月25日(1858年1月9日)に元服し昇殿を許される。元治元年12月25日(1865年1月22日)侍従となる。慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、弁事加勢に就任。以後、弁事、外国事務局権補、三等陸軍将を歴任。同年8月、旧幕府艦隊に備えて摂泉防禦総督に就任し大坂警備に当たった。さらに、左少弁、三陸巡察使、陸軍少将、兼三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て、明治3年9月24日(1870年10月18日)第一次山形県知事に就任し、明治4年10月5日(1871年11月17日)に免本官となる。その後、ロシア帝国、ドイツ帝国に留学し、1874年7月に帰国した。その後、近衛歩兵大隊長、第1師管軍法会議判士長などを務め、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍した。養父・俊政の死去に伴い、1881年11月7日、家督を相続。1884年7月7日、伯爵を叙爵。1897年7月、貴族院伯爵議員に選出され死去するまで在任した。