【古写真関連資料】望月東涯に写真を学んだ写真家・山端祥玉

◆山端祥玉
本名は山端啓之助。1877年、福井県勝山市に生まれる。小学校を卒業後、1904年より東京本郷の望月東涯に写真を学ぶ。その後、近衛歩兵第1連隊に入営し、 除隊後出張写真師となり、1910年、蘭領スマトラ島メダン市の朝日写真館技師長に就任する。1914年、英領シンガポールに写真材料商サン商会と写真館を設立する。帰国後、1927年に東京・築地にG.T.サン商会(1943年に山端写真科学研究所と改称)を創設し、1933年に写真印画用の高速輪転機で特許を取得する。1937年より終戦まで内閣情報部、海軍省、陸軍省の嘱託となり、1938年より陸軍の上海写真製作所であるプレス・ユニオンを名取洋之助と共に担当する。1945年10月に写真通信社サン・ニュース・フォトスを設立し、宮内省嘱託となって天皇家を撮影。1946年に戦後間もなく解散したG.T.サンを再興、同年に毎日新聞社の出資を得てサン写真新聞社を創設するが、1947年に公職追放となり各社代表を退く。1963年2月24日没、75歳。長崎の原爆投下直後を撮影した山端庸介は長男。