【古写真関連資料】師団と幕末明治の写真師たち

◆師団
軍隊の部隊編制単位の一つ。旅団・団より大きく、軍団・軍より小さい。師団は、主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位とされることが多い。多くの陸軍では、いくつかの旅団・団または連隊を含み、いくつかの師団が集まって軍団・軍等を構成する。明治期の日本陸軍では主力の歩兵部隊に、これを支援する砲兵、騎兵、工兵、兵站の各部隊を組み合わせて(歩兵)師団としていた。1888年の師団組織発足から50年間ほどは師団内は2個旅団~2個連隊~3個大隊~3または4個中隊という組織形態を採っていたが、中国大陸での戦線拡大で師団数を増やす必要から、1937年(昭和12年)以降順次、師団から旅団を省いて3個連隊~3個大隊~3または4個中隊という組織形態に改めた。初期形態では1つの師団が4個連隊で構成されていたため「4単位制師団」と呼ばれ、改組後の形態では1つの師団が3個連隊で構成されていたため「3単位制師団」と呼ばれる。その後、広い中国で治安警備用の部隊を分散配置させる必要から、師団内から連隊を省いた構成の2個旅団 – 4個大隊 – 4個中隊という師団も編成された。大日本帝国陸軍では、3個歩兵連隊を統括するために旅団に代わって歩兵団が置かれた。日本陸軍初の3単位制師団は1937年9月30日編成の第26師団である。1888年5月12日に6個鎮台を廃し、それに代って6個師団が置かれた。これが常設師団の始まりである。大日本帝国陸軍では、恒久的な部隊である歩兵連隊と他の諸兵科を以って組織された戦略単位である師団という単位を重視し、陸軍中将を以て補し更に特に親補職としていた。ただし、第二次世界大戦末期には優秀な若手将官を登用すべく、師団長心得という形で少将が充てられるようになった。日中戦争開戦以前の平時において、海外領土等には朝鮮軍・台湾軍・関東軍・支那駐屯軍の4軍があったが、このうち隷下に常設師団を持つのは朝鮮軍のみであり、他は師団と比べて規模兵力が特に大きかったとも言えず、大日本帝国陸軍とは、内地に於ける師団と、海外領土等に於ける或いは臨時に編成される軍との集合体であるとも言え、それぞれ天皇に直隷し、天皇の下に大日本帝国陸軍総司令官といったような軍職は無かった。また、内地に於ける日本軍の戦略組織は師団のみであり、常設師団が内地での軍政および作戦と教育を担当した。このため、有事の際に師団が外地に出征すると、内地に留守師団が置かれた。なお、太平洋戦争開戦から末期にかけて、4乃至3個歩兵連隊を基幹とした通常の師団の他に、戦車師団・高射師団・飛行師団等の、専門部隊のみの師団が編成された。これら専門部隊のみの師団は、管区を持たず軍政には関与せず、作戦に於いても、他部隊との連携を前提としたもので、単独での作戦遂行を目的としたものではない。近衛師団、戦車師団、高射師団及び飛行師団を除き、師団について単に「第○師団」と数字のみ冠して呼称した。師団制発足時の番号は、鎮台制の軍管の番号をそのまま師団番号とした。これが第1師団から第6師団である。その後は編成された順に師団番号を順に増加させていった。宇垣軍縮による師団廃止に際してはその番号は欠番とされた。

遠藤陸郎
仙台で3番目の写真師とされている。なお一番目は高桑義守、2番目は松尾柳外。父は仙台藩医・遠藤如寛。『仙台人名大辞書』には仙台藩医・遠藤恕幹(如幹)の弟という記述があるが、誤りと思われる。『明治人名辞典』に姉妹兄弟 21 名であったと記されている。本名は遠藤虎吉、遠藤寛典。遠藤家は仙台藩の武士で洋式銃隊・額兵隊に属しており、楽隊改役、差図役喇(口八)を歴任した家系。父、兄共に仙台藩の医師。 戊辰戦争で新政府軍と戦うが、敗れて函館戦争にも参加した。函館で写真技術を学んだとされているが、確定できる資料はない。二人の弟(遠藤寛哉(8男)、遠藤誠)とも医業を志すことなく、3人で写真師となる。明治 9 年、仙台で写真館を開業。明治 21 年、磐梯山噴火の際、被害状況を撮影した一組(28 枚)の「磐梯山破裂写真」を販売した。明治 27 年、兄弟3人ともに日清戦争に従軍(仙台・第 2 師団)し、戦況を撮影。明治 28 年、戦勝記念写真帖刊行。先行して遠藤寛哉が台湾台南に遠藤写真館を開く。明治 35 年、仙台・立町にあった写真館を廃業し、遠藤陸朗、 遠藤誠ともに台湾・台南(打銀街)に移り写真館を開く。のち遠藤寛哉は台南 を離れ、台北城内府前街 3 丁目 15 番戸で写真館を新設、長男(遠藤克己)も手伝ったという。明治36年、弟の遠藤誠が死去。大正 3 年、台湾・台南で死去。死後も兄弟や弟子によって写真館は継続された。大正 9 年、近所の砂糖問屋で働く青年(後の写真家・木村伊兵衛)が写真館に通い始め写真を学ぶ。墓地は仙台新寺町小路魯鈍院。明治15年、見立番付『宮城人物見立一覧表』に写真師・遠藤陸郎(遠藤陸朗)、松尾柳外と記載されている。松尾柳外は松尾官亮の別名か父と思われる。

遠藤誠
遠藤陸朗遠藤寛哉(8男)の弟。父は仙台藩医・遠藤如寛。『仙台人名大辞書』には仙台藩医・遠藤恕幹(如幹)の弟という記述があるが、誤りと思われる。『明治人名辞典』に姉妹兄弟 21 名であったと記されている。遠藤家は仙台藩の武士で洋式銃隊・額兵隊に属しており、楽隊改役、差図役喇(口八)を歴任した家系。父、兄共に仙台藩の医師。医業を志すことなく、3兄弟で写真師となる。江崎礼二に写真術を学ぶ。また、語学学校で英語を学んだ。明治 20 年、アメリカで最新の写真技術を学ぶ。明治 22 年、帰国。明治 27 年、日清戦争時には兄に同行、後には第二師団について台湾へ赴く。明治 28 年、内国勧業博覧会に松島の景などを出品し 3 等賞を受賞。明治 33 年、ロシア探検を計画し、2名の技師、通訳人夫を雇い横浜港から大連、旅順、シベリアを廻る。明治 35 年、仙台・立町にあった写真館を廃業し、遠藤陸朗、 遠藤誠ともに台湾・台南(打銀街)に移り写真館を開く。のち遠藤寛哉は台南 を離れ、台北城内府前街 3 丁目 15 番戸で写真館を新設、長男(遠藤克己)も手伝ったという。明治36年、死去。

遠藤寛哉
同じ写真師となった遠藤陸朗の弟、遠藤誠の兄。父は仙台藩医・遠藤如寛。『仙台人名大辞書』には仙台藩医・遠藤恕幹(如幹)の弟という記述があるが、誤りと思われる。『明治人名辞典』に姉妹兄弟 21 名であったと記されている。遠藤家は仙台藩の武士で洋式銃隊・額兵隊に属しており、楽隊改役、差図役喇(口八)を歴任した家系。父、兄共に仙台藩の医師。医業を志すことなく、3兄弟で写真師となる。 明治 27 年、兄弟3人ともに日清戦争に従軍(仙台・第 2 師団)し、戦況を撮影。 先行して遠藤寛哉が台湾台南に遠藤写真館を開く。明治 35 年、仙台・立町にあった写真館を廃業し、遠藤陸朗、 遠藤誠ともに台湾・台南(打銀街)に移り写真館を開く。のち遠藤寛哉は台南 を離れ、台北城内府前街 3 丁目 15 番戸で写真館を新設、長男(遠藤克己)も手伝ったという。

小熊和助
東京へ出て江木写真館で修行し、明治30年頃に柏崎で兄(小熊彌一)と共に開業。明治41年、高田に陸軍第十三師団が設置されるのを機に柏崎から分家して上越高田で独立開業した。上越高田で開業した当時の写真館(建物)が、愛知県の施設「明治村」に保管されている。OGUMA・K、小熊和という表記もあるが、本名は「わすけ」である。

富重 利平
旧姓は篠倉利平。 天保 8 年、篠倉久助の長男として生まれる。 のち富重久吾の養子となった。 安政元年、長崎に行き商売を志す。 文久 2 年、写真術を習得するため、長崎今下街の亀谷徳治郎から学んだ。 元治元年、亀谷徳治郎が京都で開業したため、長崎で上野彦馬から写真術の教えを受ける。 慶応 2 年、筑後柳川町で開業。 明治 2 年、肥後国高瀬藩主・細川能登守利永の招きで高瀬(玉名市)に移る。 まもなくして、熊本藩家老・米田監物是豪(文献によっては、細川藩の家老・長岡監物とある)の招きに 応じて熊本に赴いた。 明治 3 年、新町一丁目(新堀町)に移る。 明治 4 年、陸軍少将・井田譲を撮影。また、井田譲の依頼により旧藩邸を撮影。 明治 5 年頃、熊本城・山崎練兵場・水前寺公園などを撮影。 明治 9 年、塩屋町裏二番町に移転。 明治 10 年、西南の役の際を撮影。 また夏目漱石、小泉八雲なども撮影している。 明治 11 年、谷干城など軍幹部を撮影。 明治 24 年(30 年とも)、熊本の写真師同盟を発足し、自ら会長となる。 明治 26 年、第 6 師団長・北白川宮能久親王を撮影。北白川宮能久親王に写真術を指導した。 明治 31 年、九州写真師同盟会熊本支部長。 明治 33 年、大日本写真協会熊本支部長。 明治 36 年、第五回内国勧業博覧会に出品し三等賞牌を受賞。 明治 36 年、熊本商業会議所副会頭。 明治 36 年、富重徳次が手伝いに入る。 明治 40 年、大日本写真師大会にて全国来賓総代。 明治 43 年、ドイツ、ドレスデンの万国衛生博覧会に出品。 大正 11 年、死去。安国寺に葬られた。 昭和 38 年、熊本県近代文化功労者に選定。 建物は有形文化財に指定されている。富の字を冨重(冨重写真館、冨重利平、冨重徳次)と記載する資料もあるが、ほとんどの台紙と現地に残る当時の看板を見ても、冨ではなく「富」が正しい。

神 忍
台紙に「第二師団第四旅団歩兵第五連隊従軍」と記載されている。田井晨善に写真術を学び、明治13年、弘前で写真業を始めた。明治19年、上京してさらに技術を重ね、明治24年、ふたたび弘前塩分町で開業。 のち元寺町に移ったが火災に遭い、本町に転住した。

中鉢 直綱
家族と開拓使として北海道滝川に入植。第七師団(北海道に置かれた常備師団)兵士という。明治32年、旭川で開業。明治37年、日露戦争開戦。従軍写真師として参加。乃木希典に随行。明治39年9月、アメリカに渡り、従兄の菊地東陽(菊地学治)と合流。経済と写真術を学ぶ。明治42年、帰国。東京麻布飯倉で中鉢写真館を経営。大正3年、東京大正博覧会に出品している。昭和16年、オリエンタル写真工業の取締役に名がある。晩年は失明し、神奈川県葉山町で死去。 墓所は多磨霊園。同じ北海道旭川に中鉢孝という写真師がいるが、同一人物か関係者か不詳。

小池兵治
別名: 小池恭、小池晩人。父は小池甚哉。小池氏は江沼日屋の城主という。 文久 2 年頃、金沢へ移住。 高山一之から写真術について聞かされ、ともに大野弁吉に入門した。大野弁吉の最後の直弟子となる。 のち、長崎から帰った洋学者・小塚惣八郎に倣い、写真薬品の自製に成功。 明治初年、写真師となる。明治 3 年、金沢殿町に写真館を開設。 加賀藩家老・横山家(のち男爵家)のお抱えの写真師となった。 明治 8 年、金沢に歩兵七連隊の本部が横山邸に置かれた際に、師団長、連隊長などを撮影。 明治 39 年、養子の小池敦隆を米国の写真学校に留学させている。 大正 3 年、養子の小池敦隆が継ぐ。

伊藤 真乗
本名は伊藤文明(いとうふみあき)。次男として出生。父・伊藤文二郎は曹洞宗の禅寺の檀家総代。母・よしえは天理教信者であった。父から禅と家伝の易学「甲陽流病筮鈔」を学び、母による天理教の教えに影響を受けた。1923年(大正12年)、父が死去。1923年(大正12年)、上京し、東京中央電信局(現在のNTT)購買部に勤務。1924年(大正13年)、神田錦町にある正則英語学校普通科(現・正則学園高等学校)に入学。1925年(大正14年)、卒業し、正則英語学校高等科に進学するものの、規則(勅令青年訓練所令)により高等科を辞すことになり、青年訓練所に入所。1925年(大正14年)、東京中央電信局を退職し、神田神保町の写真機材店に勤務。義兄の紹介で、有賀乕五郎のもと最新写真技術を習得。1927年(昭和2年)、徴兵令により、立川飛行場、陸軍近衛師団管下の飛行第5連隊に入隊し写真科に配属。1928年(昭和3年)、除隊。1929年(昭和4年)、石川島飛行機製作所技術部に入社。このころ浄土教学や法華経などに触れる。1929年(昭和4年)、東京小石川の石龍子主宰の大日本易占同志会に入会し、教師資格を取得。家伝の易学研鑽を深め、無償で諸相談に応じていた。1932年(昭和7年)、同郷でまたいとこの内田友司(僧名・眞如)と結婚。キリスト教徒であった長姉の勧めで、夫婦でホーリネス淀橋教会(小原十三司牧師)で街頭伝道を体験し、立川ペンテコステ教会で聖書を学んだ。心霊科学研究会の会員との交流から、スピリチュアリズムにも触れる。1935年(昭和10年)、大日大聖不動明王を勧請。1936年(昭和11年)、石川島飛行機製作所を退社。妻友と宗教専従の生活に入る。1936年(昭和11年)、真言宗成田山新勝寺の講中として、成田山「立照講」を届出。「立照閣」を結成。1936年(昭和11年)、醍醐寺三宝院道場(京都府)にて出家得度。法名は天晴。1936年(昭和11年)、高尾山蛇滝にて滝行を開始。1938年(昭和13年)、醍醐寺末寺として、「真言宗醍醐派 立川不動尊教会」設立。1939年(昭和14年)、醍醐寺に上山、佐伯恵眼大祇師のもと、恵印灌頂を法畢。1941年(昭和16年)、真言宗醍醐派管長の命より、現・東京都武蔵村山市の修験寺院「常宝院」特命住職に着く。1941年(昭和16年)、宗教団体法施行の下、文部省主導の戦時宗教政策による全真言宗の合同により「真言宗 立川不動尊教会」となる。少僧都へと昇進。1942年(昭和17年)、戸籍名を「伊藤文明」から「伊藤真乗」に改名。1942年(昭和17年)、宗教結社「常宝会」を届出。三女、真砂子が誕生(現・苑主伊藤真聰)。1943年(昭和18年)、醍醐寺にて、佐伯恵眼第九十六世座主のもと入壇。伝法灌頂を法畢し、真言密教の法流血脈を相承。大阿闍梨となる。1946年(昭和21年)、宗教団体法廃止、合同真言宗の解体に伴ない、立川不動尊教会は真言宗から独立、単独教団となる。1948年(昭和23年)、新制定の宗教法人令のもと、新たな宗団「まこと教団」を設立。「立川不動尊教会」の寺号を「真澄寺」とする。管長に就任。教師養成機関「智泉寮(智流学院)」を真澄寺内に開講。1950年(昭和25年)、まこと教団事件が勃発し、元内弟子の告発により逮捕。1951年(昭和26年)、教団名を「真如苑」と改称。かねてから研鑚していた大般涅槃経を根本経典として教団の新体制を整える。教主となる。1953年(昭和28年)、新施行の宗教法人法のもと、文部大臣認証を得て教団が宗教法人となる(総本部真澄寺)。1955年(昭和30年)、日本宗教連盟参議となる。1966年(昭和41年)、醍醐寺から大僧正位を受ける。1966年(昭和41年)、タイ国で開催された「第8回世界仏教徒会議」に日本代表として出席。1967年(昭和42年)、「欧州宗教交流国際親善使節団」団長としてヨーロッパ7カ国、イスラエルを歴訪、ローマ教皇パウロ6世と面会。1970年(昭和45年)、米国カリフォルニア州モンテベロ市に寄贈した聖徳太子像の贈呈式が行われ名誉市民となる。1976年(昭和51年)、醍醐寺金堂において、教主導師による醍醐寺開創一千百年慶讃法要を執行。1979年(昭和54年)、発祥第二精舎落慶。本尊十一面観世音菩薩入仏開眼法要を厳修。1979年(昭和54年)、「真如苑宗教交流親善使節団」として欧州5カ国を巡教。1984年(昭和59年)、醍醐寺金堂において、教主大導師、法嗣副導師による弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要を執行。 1989年(平成元年)、死去