◆越智 保平
愛媛で時計修繕並販売をしていた。明治30年、ハワイに渡航。『ハワイ移民史』(斉藤刀水・明治三六年)に、ホノルルにて写真業と記載されている。大正初期の時点で、ハワイに日本人写真師が4人いたという。
◆煤孫 龍之助
明治期にハワイで「すすまご写真館・ホノルル第一等の写真師」と書かれた広告が出ている。著名な移民の星名謙一郎が利用していた資料が残っている。大正初期の時点で、ハワイに日本人写真師が4人いたという。
◆森田 栄
父は森田栄治郎。明治10年、愛媛東宇和郡土居村に長男として生れる。明治29年、土居村で書記を勤める。明治32年、日露国船ダルニストック号で自由渡航者としてハワイへ渡航。現地ホノルルで写真術を研究した。先妻森田ヤスノは日本で婚姻してハワイに同行したが、明治33年に死去。明治35年、オアフ島のワイパフに写真館を開業。のち、オアフ島エワに支店も開設。弟子の育成にも努めた。大正時点で4人の日本人写真師が居たという。明治36年、中央日本人会支部副支部長、明治41年、曹洞宗布教場役員、明治45年、日本語学校学務委員長、大正10年、ワイパフ公益会を組織し理事長など歴任。大正4年、『布哇日本人発展史』を刊行し、天覧となった。大正8年、『布哇五十年史』を刊行。この2冊はハワイ移民史研究上の貴重資料となっている。大正13年から昭和2年まで、嘱託で総領事館請願届代書取次人。 日本で関東大震災が起こった際に、義援金を募集し、17000ドルを送金。昭和2年、郷里・土居村の村長から依頼され帰国。昭和6年から昭和14年まで村長を務めた。昭和19年死去。後妻は森田イト。長男は森田栄一がある。
◆小坂 一郎
ハワイで写真館を経営していた祖父の影響で写真家を志す。大正 12 年、単身上京し、東京帝国大学専属写真技師の伯父・樫孝吉に入門する。 数日後に関東大震災に遭遇。復興後、伯父を補佐しながら、写真技術を学ぶ。 昭和 4 年、帰郷し、徴兵検査に不合格となったのを機に、黒部市に写真館を開業。 昭和 12 年、博覧会の写真展で上位を独占。 小西六(現・コニカミノルタ)に依頼されカラー写真の講習会を開いている。 昭和 17 年、富山市で個展を開催。 昭和 20 年、写真館を残し、出兵。終戦前に戦病死。大正初期の時点で、ハワイに日本人写真師が4人いたというが、祖父は特定できていない。