【古写真の調査後売却】戦後間もない広島市内スライド18枚

戦後すぐの広島市内写真スライド

原爆ドーム(げんばくドーム、英: Atomic Bomb Dome)は、1945年(昭和20年)8月6日8時15分に日本の広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物(被爆建造物)である。広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)とも呼ばれる。もともとは広島県のさまざまな物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、戦中から原爆投下時までは広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)(ID775)に登録されており、平和を訴える記念碑として、特に負の世界遺産と呼ばれている。位置所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、西から南にかけては元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっている。北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、広島市民球場跡地と向き合う。東側約200メートルの位置に、爆心地に比定される島病院がある。建設の経緯広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、6年後の1915年(大正4年)に竣工した。竣工1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル。工事の施工を椋田組が請け負った。ドームの先端までの高さは約25メートルあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じころ、レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。設計料は4,575円。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋 – 広島間の汽車の運賃は三等車で5円17銭、一等車でも13円33銭であった。原爆投下までの沿革1919年(大正8年)3月4日から物産陳列館で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われた。これは、第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所内「俘虜収容所」に収容されていたドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによるものである。1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館に改称された。このころには盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。しかし、戦争が長引くなか、1944年(昭和19年)3月31日には奨励館業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として原爆投下の日を迎える。