【古写真の調査後売却】大隈重信ほか、早稲田大学の関係者集合写真

大隈重信、早稲田大学集合写真】古写真◆鳩山和夫、イオン岡田惣一郎塩澤昌貞千葉豊治守隨本店高田早苗古島安二昔台紙人物肖像明治

◆大隈 重信
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。同志社大学社友。政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ教育者。

◆大隈 綾子
大隈重信の2番目の妻である。50年以上にわたって夫を助け、賢妻の誉れ高かった。江藤新作や小栗忠順の遺児である国子を育てたことでも知られる。旧姓は三枝。兄に小倉鉄道取締役を務めた三枝守富。従兄に小栗忠順がいる。

◆岡田 惣一郎
四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉。イオンの社史など史料で詳しい経歴が公開されていないため家柄などの出自が判明していない人物である。前田末吉は、貿易関係で朝鮮半島に渡航した後、四日市西町の紙商店である鍵忠の奉公人として修業し、勤勉に働いていた男性だった。それが惣右衛門の母・うのに、目をかけられ、婿養子になることを望まれることとなった。前田末吉・岡田ひさの夫妻の間には、長女の岡田とよと長男の岡田惣一郎が誕生した。惣右衛門は、とよ、惣一郎の2人を自分の子として四日市岡田家の養子とし、惣右衛門の妻・のぶが養育した。前田末吉は、岡田惣七と改名し、四日市西町に分家した。惣一郎は、1902年(明治35年)に、四日市商業学校を卒業した。当時に東京専門学校から昇格した早稲田大学に進学。1905年(明治38年)7月に、早稲田大学を卒業する。アメリカの大学に留学を希望したが、岡田惣右衛門の怒りを買い、強制的に岡田屋に連れ戻される。惣一郎は名古屋市にある陸軍の歩兵第六連隊に志願兵として入営する。惣一郎の妻の田鶴(旧姓は美濃部)は、四日市高等女学校(現在の三重県立四日市高等学校)を卒業し、鈴鹿市から四日市市に通う茶道教室の師範生だった。田鶴の父の美濃部鏘次郎は、駒場農学校(東京大学農学部の前身)の卒業生で、三重県農林部の技師であった。1921年(大正10年)に店内に和服以外の洋服部を開設して、洋服の販売を開始した。また社員への福利厚生のため、新たに岡田屋の社宅を新設して、岡田屋社員の住宅設備も整備した。1927年(昭和2年)、心臓弁膜症のため42歳で逝去した。家督を継いだ長男の卓也が2歳の幼少だったので、岡田卓也の姉2人が後見人となった。岡田惣一郎は早稲田大学在学中に、日記や東海道徒歩旅行記を書き残している。1902年(明治35年)、惣一郎は渋沢栄一と会見するため、四日市の地場産業である万古焼を販売してその資金を旅行費にし、5人の友人と東京市まで旅行した。7月12日に四日市を出発し、10日後には次のように記している。「明治35年7月22日に遂に我等が今の次の大旅行の最大の目的たる実業家の渋沢栄一先生との面談かなえる。その間わずか2分余りといえども、門衛の制するを払い、我等身分。経歴を唱和し、我等尊仰する産業指導者の渋沢栄一先生に面談のため四日市より徒歩にて来りしを告げる。先生、一言なかりしも、我等一人一人と握手を交したり。この感激を如く何に伝えん」「記岡田」と署名があり、記述者は岡田惣一郎だった。実父は婿養子で出自不明の前田末吉。実母は惣右衛門の妹・ひさ。妻の田鶴は1935年(昭和10年)に結核のため病死した。子は5人。長女の嘉津子(結婚後の1941年に病死)、次女の小嶋千鶴子(旧姓岡田、夫は画家の小嶋三郎一)、三女の稔子、四女のみどりの4人の女子がいる。末子(長男)がイオングループ創業者の岡田卓也。孫にはイオングループ経営者の岡田元也と政治家の岡田克也などがいる。卓也の妻は高田徳太郎の長女・保子で、保子の妹は慶應義塾大学教授速水融に嫁いだ(速水の伯父には東畑精一などがいる)。卓也の三男昌也は母方の高田家に養子入りした。克也の妻は衆議院議員村上信二郎の長女で、行政改革担当大臣などを歴任した村上誠一郎の妹。信二郎の兄・村上孝太郎は参議院議員。

◆鳩山 和夫
日本の政治家、法律家。位階勲等学位は正四位勲三等法学博士。日本人第1号の法学博士。外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(のち専修大学)の設立に大きく貢献をした功労者である。また、東京専門学校(のち早稲田大学)の校長なども務めた。長男は鳩山一郎、次男は鳩山秀夫。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫・鳩山邦夫は曾孫。鳩山太郎・鳩山二郎・鳩山玲人・鳩山紀一郎は玄孫。

◆鳩山 春子
日本の教育者。共立女子大学創立者の一人。旧姓多賀。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)、戸板関子(戸板学園創立者)などと並ぶ日本の女子高等教育の基盤づくりに活躍した「明治クリスチャン教育家」のうちの一人である。夫の鳩山和夫を賢妻として助け、のちに連なる鳩山一族の礎ともいうべき存在であり、息子の鳩山一郎のために立憲政友会の別の候補者を辞退させ当選させたことが統帥権干犯問題や鈴木喜三郎に繋がり軍部の専横の増大を間接的に生んだ。戦後、多くの子孫が政治、経済、学問の道で活躍した。

◆塩澤 昌貞
茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。1870年 – 士族関昌恒の次男として水戸市下荒神町に生まれ、後に士族塩沢元孝の養子となる。栗田寛の私塾に学ぶ。その後、東京に遊学し、東京英語学校(日本中学)などを経て、1891年 – 東京専門学校(のちの早稲田大学)英語政治科を首席で卒業。大隈綾子夫人が贈る記念品を受領した。語学堪能。1896年 – ウィスコンシン大学大学院でリチャード・T・イーリー(en:Richard T. Ely)教授に経済学を学んでドクター・オヴ・フィロソフィーの学位取得(1900年)、その後1年間ジェーン・アダムスのハルハウスに滞在、ドイツのハレ大学ではヨハネス・コンラート(en:Johannes Conrad)教授、ベルリン大学ではアドルフ・ワーグナー (経済学者)とグスタフ・フォン・シュモラーに学んだ(1902年まで)。帰国後、教授となる。1909年 – 法学博士。1911年 – 早大政治経済科長。1921年 – 第4代学長(1923年まで)。1923年 – 第2代総長。1934年 – 帝国学士院会員。1943年 – 名誉教授となる。1945年 – 静養先の静岡県伊東町で死去。74歳

◆千葉豊治
1881(明治14)年、宮城県志田郡古川町で、油商、材木商の息子として生まれる。吉野作造(1878~1933)とは幼なじみ。台湾官費国語学校を経て宮城農学校に入学。在学中に洗礼を受ける。早稲田大学政治経済学科に進み、島田三郎(1852~1923)らに指導を受ける傍ら、海老名弾正(1856~1937)の本郷教会に所属。また、「早稲田清韓教会」に所属し、海外への雄飛を考えていた。1905(明治38)年早大を卒業し東京府農会書記となるが、翌年6月渡米。カリフォルニア州立大で学びながら安孫子久太郎経営の「日米」の編集に参加し、社説、産業経済欄を担当。また「日米年鑑」で日系移民の調査にあたる。その後「北米農報」を経て1916(大正5)年にカリフォルニアの日系農民の組織化を目指して設立された加州中央農会の専務理事に就任。1918(大正7)年には理事長になる。しかし、カリフォルニアにおける排日の動きに失望し、朝鮮、満州における日本人の海外発展を目指して1921(大正10)年、アメリカを離れ、渡満。

◆中野勇平
 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)位階・勲等・功級爵位・身分・家柄 石川縣在籍職業 日本絹絨紡織(株)專務取締役性別 男性生年月日 明治十八年八月 (1885)親名・続柄 中野甚三の長男家族 母 ゆう 元治元、二生、父權右衞門長女男 千代隆 大四、一〇生記述部分(略伝) 君は石川縣人中野甚三の長男にして明治十八年八月を以て生れ大正三年家督を相續す明治三十八年早稻田大學專門部政治經濟科を卒業し同四十一年大阪商船會に入る大正八年東京絹絨紡織會を創設して現時同專務取締役たり妹操(明二六、一生)は同夫仁三郞(同二三、一生、石川、森多西右衞門五男)と共に其一子を伴ひ分家せり住所 東京、赤坂、臺町二四

◆古島安二
 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)位階・勲等・功級爵位・身分・家柄 新潟縣在籍職業 名古屋棧橋倉庫(株)長、矢作開墾(株)常務取締役、矢作索道、桃源殖産各(株)監査役、東邦電力(株)理事性別 男性生年月日 明治十五年一月 (1882)親名・続柄 山崎正八の二男家族 妻 ヨシ 明一七、二生、新潟、玉川覺平長女男 信 明四四、四生記述部分(略伝) 君は新潟縣人山崎正八の二男にして明治十五年一月を以て生れ後ち先代理策の養子となり同四十年家督を相續す同三十八年早稻田大學專門部政治經濟科を卒業し現時名古屋棧橋倉庫會々長たる外前記諸會の重役たり家族は尚長女絢子(大三、五生)二女麗子(同六、三生)四男清(同一一、九生)あり住所 東京市外落合町下落合三六七

◆山田松太郎
明治31年(1898)10月31日堺市に生れる。大倉商業学校から早稲田大学に入学。 大正8年、 同大学英文科を卒業。 直ちに、 ハーバード大学大学院に入学。 のち欧州を経て大正11年に帰国。暫時、翻訳に従事した。 その後、大正14年、大阪高等工業学校(大阪大学の前身)の講師を勤めながら北野中学校の英語講師をも勤めた。 昭和4年、関西大学講師に迎えられ、のち昭和11年、教授となる。昭和22年、予科長となり、 更に法人協議員に推挙された。 この頃、学制改革による新制大学への移行に際し八鳥治一教授と共に英文学科再建に尽力。また、学生のよきアドバイザーとして厚生・就職を担う学生部の職に永く専念し、その活躍ぶりは計り知れないものがあった。 昭和37年(1962)1月1日現職(就職部長)のまま薬石効なく没した。63歳

◆深川彌作 
佐賀縣在籍職業 佐賀縣多額納税、深川(資)代表員、金融業性別 男性生年月日 明治十五年一月 (1882)親名・続柄 深川駒吉の二男家族 母 シカ 天保四、一二生、佐賀、鐘ケ江伊之助長女妻 ヨネ 明一五、四生、佐賀、士、古川儀一妹男 彌太郞 明四三、二生女 スマコ 明四五、五生記述部分(略伝) 君は佐賀縣人深川駒吉の二男にして同重吉の養弟なり明治十五年一月を以て生れ先代彌市の養子となり同十八年家督を相續す同三十八年早稻田大學專門部政經科を卒業し先代の家業を繼承し大正八年深川合資會を組織し金融業を營み同代表員となる現に佐賀縣多額納税たり家族は尚二女エイコ(大三、一一生)二男重彌(同七、一生)三男昌彌(同一二、四生)あり住所 佐賀、杵島、須古村

◆守隨眞一郎 
守隨本店 当主  

◆馬屋原仙一 (馬屋原二郎の長男)
妹の五女・馬屋原益子は福沢諭吉の四男・福沢大四郎の妻。馬屋原二郎は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。帰国後、1875年5月9日、司法省に入省し七等出仕、以後、判事に任官し、函館始審裁判所長、大審院評定官、神戸始審裁判所長、神戸重罪裁判所長、神戸地方裁判所長、大阪地方裁判所長、大審院判事などを歴任し、1898年11月30日、大審院判事を休職し、1899年2月3日退職した。1903年7月15日、貴族院勅選議員に任じられ、在任中の1915年11月、東京市牛込区原町の自宅で療養中に死去した。

◆田中 唯一郎
明治・大正期の教育家 早稲田大学理事。生年慶応3年(1867年)没年大正10(1921)年9月26日出身地埼玉県学歴〔年〕東京専門学校(現・早稲田大学)〔明治23年〕卒経歴立憲改進党に加わり、条約改正に尽力。明治25年東京専門学校寄宿長となり、同校の幹事、評議員を歴任。35年母校が早稲田大学と改称すると幹事、理事となり経営に関与。また早稲田中学、同実業学校の創立に尽くした。辞任後、実業界に入り、日清印刷、日華窯業の重役についたこともある。

◆加藤正治
法学者。名は「しょうじ」ともよばれる。明治4年3月10日長野県に生まれる。1897年(明治30)東京帝国大学法科大学卒業、1903年(明治36)同大学教授。31年(昭和6)定年退官後は中央大学総長、民事訴訟法学会会長、海法学会会長などを歴任した。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。東京帝国大学在職中は、民法、民事訴訟法、破産法などの講座を担当した。専門は民事訴訟法、破産法。政府の法律取調委員、法制審議会委員などとして、商法、民事訴訟法、破産法、和議法などの立法事業に参画し、民事訴訟法、破産法、和議法の立法、法改正には中心的役割を果たした。47年(昭和22)には旧憲法下の枢密院の顧問官となり、日本国憲法などの審議に参与した。学問的にはとくに破産法研究の開拓者である。昭和27年3月16日没。主要著書として『破産法研究』11巻、『破産法要論』『和議法要論』『民事訴訟法要論』『強制執行法要論』などがある。

◆今村 信行
日本の司法官。日本初の民事訴訟法「民事撮要」を作り、大審院判事(現・最高裁判所裁判官)を務めた。幼名は松太郎。竜川と号す。今村恭太郎の父。信濃国伊那郡山吹村(現・長野県下伊那郡高森町)に旗本(伊那衆)座光寺氏の家臣今村文吾の長男に生まれる。当時の伊那谷の流行に乗り平田篤胤の没後門人となった。旧飯田藩士について砲術、槍術を学ぶ。明治維新後の1869年に横浜に出て、弟の妻の叔父でもある林董の紹介で、米国の医師で宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンを知り、辞書の著述に助力した際に、ヘボンから不平等条約の解決には法制度の完備が必要であるから法律を学んだらどうかと諭されて法律家を目指し、児島惟謙の紹介で1872年司法裁判所に13等で出仕した。東京裁判所詰、権少解部(訴訟担当職員)となり、翌年には10等出仕・権中解部に昇進、三好退蔵が山梨裁判所長に転じるときに請われて同裁判所詰になり、1877年に児島惟謙が名古屋裁判所長として赴任するとき、やはり請われて名古屋裁判所詰となり、このとき判事に昇進。1881年、東京勤務を三好退蔵に嘆願し、児島惟謙の斡旋を得て東京上等裁判所判事に転じる。1882年東京控訴裁判所の判事となる。1884年岡山始審裁判所長、1886年東京控訴院評定官を経て、1894年大審院判事となる。この間、「民事訴訟法」、「裁判所構成法」の法典の編纂と施行に尽力し、法律取調報告委員や民事訴訟法調査委員などをつとめた。1884年に三好退蔵を委員長に訴訟規則取調委員会が設置され、御雇外国人の法学者ヘルマン・テッヒョー起草の民事訴訟法案の検討が進められることになり、南部甕男・栗塚省吾・本多康直らとともに委員に任命され、続く1887年には、山田顕義司法大臣を委員長とする法律取調委員会が設置され、その法律取調報告委員にも任命される。1889年に日本法律学校が創立されると、民事訴訟法担当の講師として長く教鞭を執った。1900年には、大審院判事から東京控訴院(民事)部長に転じる。1909年従三位勲二等旭日重光章を受勲。

◆高田 早苗
明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。法学博士。号は半峰。衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任した。1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。法学者の小野梓と知り合い、大隈重信の立憲改進党に加わった。また、大隈と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参加し東京専門学校評議員・講師となり、早稲田の運営に力を注いだ。1887年から1890年末まで読売新聞主筆。1901年、法学博士。「Category:法学博士取得者」を参照1907年、早稲田大学が総長・学長制を敷くと、初代学長に就任(初代総長は大隈重信)。1923年(大正12年)5月から1931年(昭和6年)6月まで同大総長。1928年、帝国学士院会員。教育者として早稲田大学の運営に携わる間に、1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現川越市)から立候補し全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加し、通算6期務めた。主筆退任の時期は第一帝国議会召集の時期に重なる。1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長、1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となる。1897年、外務省に入るに際して株主として経営に参画していた読売新聞からの退社を広告した。1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れた。1915年5月19日貴族院議員に勅選され、また、8月には第2次大隈重信内閣の内閣改造で文部大臣として入閣した。早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した[6][7]。現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。1925年(大正14年)3月23日、仮放送を開始したばかりのラジオに出演、「新旧の弁」と題する講演を行った。これが日本最初の教育放送である。1931年(昭和6年)6月、病気を理由に早大総長を辞任。翌月10日の臨時維持員会は高田の名誉総長推薦を決議したが、高田はこれを固辞して悠々自適の隠居生活に入った。1938年(昭和13年)12月3日死去。葬儀は大隈講堂で大学葬により行われた。妻は前島密長女。戒名は明教院顕誉半峰居士。墓所は豊島区駒込の染井霊園。

◆前田彦明
京都市会議員 

◆杉中 種吉
「国民新聞」政治部長