【古写真の調査後売却】ポーズをとる美人女性の手彩写真(鶏卵紙、台紙貼り付け)

【古写真の調査後売却】ポーズをとる美人女性の手彩写真(鶏卵紙、台紙貼り付け)写真師台紙鶏卵紙

◆日本における美人像
日本の平安時代には、肌理(きめ)の細かい色白の肌、ふっくらした頬、長くしなやかな黒髪が典型的な美人の条件として尊ばれた。ただし、一定以上の身分のある女性は近親者以外の男性に顔を見せないものとされたため、男性はめあての女性の寝所に忍んで行き、ほの暗い灯火の下で初めてその姿を見るということが普通であった。化粧は、顔に白粉を塗り、眉を除去して墨で描き(引眉)、歯を黒く染める(お歯黒)といったもので、健康美よりはむしろ妖艶さが強調された。当時の女性の成年年齢は初潮を迎える12~14歳であり、30代はすでに盛りを過ぎた年齢とみなされていた。ちなみに、しばしば言及される引目鉤鼻は源氏物語絵巻等の平安絵画において高貴な人物を描く際に用いられた表現技法の名称である。六歌仙の一人である女流歌人小野小町は、当時の美人像からして絶世の美女であったとされている。

戦国時代に日本に30年以上滞在した西洋人ルイス・フロイスは「ヨーロッパ人は大きな目を美しいとしている。日本人はそれを恐ろしいものと考え、涙の出る部分の閉じているのを美しいとしている。」と、当時の日本人が大きな目よりも絵巻物や美人画に描かれるような涼しい目を理想としていた様子を記している。

江戸時代には、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の典型とされた(浮世絵で見られる女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品である。詳しくは美人画を参照)。当時最も売れた化粧指南書『都風俗化粧伝』において「目の大なるをほそく見する伝」という項が存在し、目に関しては現在とは異なる美意識だったことを表している。井原西鶴の『好色五人女』には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が窺える。こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで美人像の基調となった。一方で、明治時代に入ると欧化主義とそれに伴う洋装化の動きが起こり、大正時代の関東大震災後からパーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、従来の美意識と相容れないような西洋式の美容が広まり、欧米の影響を強く受けて、白人に近い顔立ちが美人とされ、白人の特徴であるブロンドや茶髪、大きな眼や碧眼(青い目)、薄い唇、高い鼻、スマートな体型などが憧れの対象となった。

戦後では雑誌やマスメディアを通じて化粧品やメイクに関する情報が広く共有され、白い肌美肌・小顔・細面・大きな目・二重まぶた・細長くて程良く高い鼻・曲線美・脚線美・人気のある平均身長・痩せ型など、ファッションモデル産業と密接に結びついた審美観が普及している。特に印象全体に可愛さも兼ね備えている童顔の白人や白人ハーフが人気の傾向にある。

また、プリクラや加工アプリなどの画像加工による美の追求も盛んに行われている。その反面、容姿の美醜が従来以上に女性の幸福感を左右するようになり、こうした傾向は摂食障害や美容整形への過度の依存など、身体的・精神的健康をむしばむ新たな問題を生じている。

ただ、ここ最近になって外見だけにとらわれずに女性本人の印象や人間性・所作などの内面性に焦点を当てて「雰囲気美人」や「性格美人」などの言葉が最近になり派生し注目されはじめている。反対に外見だけが秀でていても内面性がよくないと「美人」として認知されないケースもある。