大橋 乙羽(おおはし おとわ)

大橋乙羽写真師台紙鶏卵紙

明治29年、博文館のカメラマンとして明治三陸地震(明治三陸大津波)を撮影した記録がある。本名は大橋又太郎、旧姓は渡部又太郎。父は渡部治兵衛、母は渡部かつ。旅館「音羽屋」を営んでいた。6男で、後に実家の屋号からペンネームを付けた。北堤小学校に入学。既に作文などが得意であった。卒業後、山形十日町の呉服商「富士屋」で商売の見習いをはじめる。次第に文学を志して実家へ戻った。友人と雑誌を作ったりした後、20歳の時に磐梯山爆発の記事を『出羽新聞』に載せ、出版社東陽堂主人の吾妻健三郎の目に留まり、上京して東陽堂に入社した。『風俗画報』『絵画叢誌』を編集し、政治小説『霹靂一声』などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。『こぼれ松葉』『露小袖』『霜夜の虫』などを書き、『上杉鷹山』の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、大橋佐平の長女大橋とき(大橋時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派や樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、博文館では『文芸倶楽部』のほか総合雑誌『太陽』の編集も手掛けた。写真を多用した雑誌『太平洋』を立ち上げて自らカメラマンもする など、多くの雑誌を成功させた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。樋口一葉とは明治28年に半井桃水から紹介されて知り合った。1896年には一葉の『たけくらべ』を『文芸倶楽部』に一括掲載、さらに乙羽の依頼で一葉は『ゆく雲』『にごりえ』など代表作を発表。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。思案と東北を旅した際の『奥州日記』、1900年に外遊した際の『欧山米水』、特に紀行文集『千山万水』は有名。遊時にはパリ万国博覧会 (1900年)に合わせて開かれた著作権に関する国際会議に出席。帰国後の1901年、腸チフスと筋膜炎を併発し6月1日午前6時に死去。

生年/出身: 1869 山形(羽前国米沢立町二ツ橋畔)

開業年:

開業地、主要拠点: 東京

師匠:

弟子: