込山 英松(こめやま ひでまつ)

写真師ではなく、共榮廣告社というペンキ美術書、看板屋を業としていた。明治29年、明治三陸地震(明治三陸大津波)を撮影するため現地に行っている。写真は雑誌「太陽」などに掲載された。のち、本姓の大宮英松に戻す。日露戰争後には本業を止めも止めて裏通りへ引込み蓄音機屋を営んだ。大正9年、大宮英松編(三越呉服店美術部)の出版物「庚申永陵画集(佐竹永陵画集)」が刊行されている。人事興信録では、三女の大宮梅子は実業家の平塚房次郞の長男・平塚長吉郞の妻となっている。

生年/出身:

開業年:

開業地、主要拠点: 東京(浅草蔵前南元町26)

師匠:

弟子: