【古写真関連資料】愛媛(伊予國)で明治期に活躍した日本人写真師たち

赤松 重老(あかまつ **)

明治34年、松山で開業。 明治36年、 閑院宮、鍋島侯爵などをお迎えし、道後公園風詠館南に会場を設けて数百名の大人数の写真を撮影している。明治 37年、弟・赤松範三郎が継いでいる。

赤松 範三郎(あかまつ のりさぶろう)

赤松範三と記載された文献がある。明治 37年、兄・赤松重老を継いだ。

森田 栄(もりた さかえ)

父は森田栄治郎。明治10年、愛媛東宇和郡土居村に長男として生れる。明治29年、土居村で書記を勤める。明治32年、日露国船ダルニストック号で自由渡航者としてハワイへ渡航。現地ホノルルで写真術を研究した。先妻森田ヤスノは日本で婚姻してハワイに同行したが、明治33年に死去。明治35年、オアフ島のワイパフに写真館を開業。のち、オアフ島エワに支店も開設。弟子の育成にも努めた。大正時点で4人の日本人写真師が居たという。明治36年、中央日本人会支部副支部長、明治41年、曹洞宗布教場役員、明治45年、日本語学校学務委員長、大正10年、ワイパフ公益会を組織し理事長など歴任。大正4年、『布哇日本人発展史』を刊行し、天覧となった。大正8年、『布哇五十年史』を刊行。この2冊はハワイ移民史研究上の貴重資料となっている。大正13年から昭和2年まで、嘱託で総領事館請願届代書取次人。 日本で関東大震災が起こった際に、義援金を募集し、17000ドルを送金。昭和2年、郷里・土居村の村長から依頼され帰国。昭和6年から昭和14年まで村長を務めた。昭和19年死去。後妻は森田イト。長男は森田栄一がある。

橋本 **(はしもと **)

明治17年発刊の書物「松山市街・玉盡独案所」に写真館が案内されている。松山市史に「明治17年 開業」と記載されている。

井出 **(いで **)

明治37年、松山市で開業。

児玉 善八(こだま ぜんぱち)

明治 26 年、医者を目指し宇和島で町田医家に入門、西洋医学を学ぶ。 師匠が写真研究に興味を持っており、その影響で師匠の没後は写真師を目指す。 明治31年、写真館「明治館」を開業。のち大街道小唐人町などに移転 。

加藤 尚敏(かとう なおとし)

明治期に大街道で開業していた。

北村 貞喜(きたむら **)

明治28年、松山市で開業。

原田 栄(はらだ **)

愛媛(松山 3 番丁) で開業。

森本 **(もりもと **)

明治14年、松山市で開業。

大野 昌三郎(おおの しょうざぶろう)

宇和島藩下級藩士。宇和島藩士・斎藤家の三男に生まれる。兄に斎藤丈蔵がいる。徒の大野家を継いだ。嘉永 4 年、分限帳に四人分(内一人分け足高)九俵と記載されている。 柔術にすぐれ、弘化2年、宇和島藩の武術大会に出場している。嘉永元年、高野長英が宇和島に来た時、谷依中・土居直三郎と共に蘭学を学ぶ。 嘉永 2 年、京都・大坂への遊学を命じられる。 長崎でオランダ通詞・森山栄之助にも学んだ。 嘉永 6 年、宇和島を訪れた大村益次郎にも学んだ。嘉永6年、村田蔵六(大村益次郎)が宇和島を訪れた際に、三瀬諸淵(別名は三瀬周三。シーボルト最後の弟子で、のち楠本イネの娘・楠本高子と結婚)とともに学んでいる。文久 3 年、脱藩(隠居)し、民間で蘭学研究に従事。 元治元年、楠本イネと楠本高子を伴って宇和島に帰郷している。慶応 3 年、独学で写真術を覚え、息子(大野悪鬼三郎・1862年生)を撮影。初期の今治吹上城の写真などが残る。明治 5 年頃、楠本イネから写真術を伝授されている。明治6年、小野義真(内務省土木頭)に招かれ、「準奏任御用掛、土木寮勤務、月俸百円」の辞令のもとに、蘭書翻訳に従事する厚遇新政府に出仕したが、間もなくして辞職し、宇和島に戻った。明治 13 年、死去。墓は宇和島の泰平寺。

宇野 勇作(うの ゆうさく)

明治41年、松山市で開業。

宇野 和吉(うの わきち)

宇野重吉と書かれた資料もある。愛媛松山中学校裏に写真館があり、中学時代の夏目漱石集合写真を撮影している。明治39年、中川理利から事業を譲られている。

廣田 真(ひろた まこと)

広田真の表記もある。不詳。明治中期の台紙が残っている。

高橋 直三郎(たかはし なおさぶろう)

明治36年、松山市で開業。

戸田 **(とだ **)

明治28年、松山市で開業。戸田随天堂の館名が残っている。

武知 **(たけち **)

明治28年、松山市で開業。

越智 保平(おち やすへい)

愛媛で時計修繕並販売をしていた。明治30年、ハワイに渡航。『ハワイ移民史』(斉藤刀水・明治三六年)に、ホノルルにて写真業と記載されている。大正初期の時点で、ハワイに日本人写真師が4人いたという。

長谷川 保定(はせがわ やすさだ)

祖父は長岡藩医漢方医・長谷川宗斎。父は済生学舎(現・日本医科大学)創立者で衆院議員・長谷川泰。 母は愛媛松山藩士林儀行の長女・ 林柳子。姉の長谷川すては、外交官・松田道一に嫁いでいる。妹の長谷川静は、東京慈恵会医科大学創立者・松山棟庵の五男・松山七五郎(松山病院産婦人科部長)に嫁いでいる。
長男として生まれる。日本乾板株式會社監査役でもあった。明治 29 年、湯島学校に入学。のちドイツ協会学校に入学し、写真の手ほどきを受けた。 明治 30 年頃、顕微鏡写真撮影に成功。 明治 35 年、東京外国語学校(現・東京外大)独逸語科に入学。 明治 36 年、東京写友会展覧会に出品して 1 等 2 級金牌受賞。 明治 40 年、日本乾板創立委員。 明治 40 年、本郷元町に写真館を開業。 大正元年、国産印画紙の製造に着手。のち薬品製造に転じる。 大正 3 年、日本で初めてマグネシウム製造に成功。 なお、佐藤福待は、鈴木真一の写真館(九段坂)を購入し、佐藤写真館を開業したのち、長谷川保定に譲っ ている。

長谷川 **(はせがわ **)

明治17年発刊の書物「松山市街・玉盡独案所」に写真館が案内されている。松山市史に開業年は明治17年とある。

鈴木 廣弌(すずき **)

愛媛(宇和島丸ノ内) で開業。米国風早撮写真師と記載された台紙がある。鈴木広弌、鈴木廣一、鈴木広一の記載もある。

中川 理利(なかがわ まさとし)

明治37年、山下金次郎が入門している。明治 39 年、宇野和吉(宇野重吉とも)に事業を譲っている。

鴻野 多平(こうの たへい)

伊予河野一族。のち鴻野と改める。代々阿波国宮の島村庄屋。 明治初年、大阪心斎橋に出て写真台紙を創製。鴻野台紙は多く使用された。「鴻野製」と表記されている台紙が多く見られる。明治 11 年、杉浦六右衛門の支援により写真機械を販売。 明治 38 年、死去。二代目として鴻野岩次郎が継承。

松本 秀香(まつもと **)

明治28年、松山市で開業。

松本 **(まつもと **)

明治17年発刊の書物「松山市街・玉盡独案所」に写真館が案内されている。

長井 輝正(初代)(ながい てるまさ)

父は三上与惣兵衛。次男として生まれる。 のち代々松山藩士を務めた家柄の長井八郎右衛門家を相続し、名を は長井八郎兵衛輝正とし、家を継承した。馬廻役であった。1861年から1867年まで江戸詰めの際に、藩主・久松松平家の家祖神(天穂日命)のある東雲神社詰所の廊にたびたび出向き、その際に知り合ったイギリス人に写真術を学んだ。明治初期、大阪の吉川日進軒(吉川治兵衛)で学んでいる。のち松山に戻り明治4年、小唐人町2-14に用品店と兼ねて写真館を開業。明治 5 年、岡山市東中山下に開業。 堀真澄(2 代目)若林耕化と交流があった。 市参事会会員。明治 23 年、死去。 息子の長井 輝正(二代)が跡を継いだ。 孫の長井輝一は、長井 輝正(二代)の息子。

長井 輝正(二代)(ながい てるまさ)

長井五郎治と名乗っていた。父・長井輝正(初代)について写真術を学んだ。明治 10 年頃、大阪で若林耕化の門人となる。明治 12 年、帰郷し、3番町に写真所を新築した。明治 23 年、父が亡くなり名を継ぐ。明治25年、東京で第一回勧業博覧会に愛媛県代表として日本初の全国同業会に出席。帰郷し、洋風の写真館を新築し移転。妻や弟も手伝っていたという。その後、岡山に転居し開業した。明治 32 年、死去。岡山で息子(長井輝一)が三代目として写真業を継いでいる。

長井 輝一(ながい てるかず)

「長井照一」の表記もある。長井輝正(2 代)の息子。医学を志していた。 明治 32 年、父の急死により、若林耕化に入門する。明治 36 年、岡山東中山下の佐々木写真館を買い取る。 明治 37 年、岡山東中山下で開業した。祖父は長井輝正(初代)

西山 重威(にしやま しげたけ)

伊予松山藩士。 はじめ松山で長井輝正に学び、のち大阪に出て若林耕化に写真術を学んだ。 明治 9 年頃、北野へ移り、出張撮影を専門に開業。 のち中橋筋に写真館を開業。

最上 輝忠(もがみ てるただ)

愛媛八幡浜で開業。明治後期の台紙が残っている。