

◆黒田長知
筑前福岡藩の第12代(最後の)藩主、初代知藩事。天保9年12月19日(1839年2月2日)、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男として江戸柳原藤堂藩邸にて生まれる。母は側室の妙貞院(橋本清娯の娘)。嘉永元年(1848年)11月、11歳で第11代福岡藩主・黒田斉溥の養嗣子となり、将軍徳川家慶の偏諱を授かって黒田慶賛(よしすけ)と名乗った。幕末期の動乱の中では、親長州藩的な人物で、禁門の変などにおける長州藩の苦境に際し、朝廷や幕府に対して長州藩の赦免を求めている。明治2年(1869年)2月5日、斉溥(改め長溥)の隠居により家督を継ぎ、同年6月の版籍奉還により知藩事となった。この頃に名を長知と改めている。明治4年(1871年7月2日)、当主となった2年後、戊辰戦争出兵による財政難から藩当局が太政官札・二分金などを贋造して北海道で物資買い付けを行っていたことが発覚した(太政官札贋造事件)。この責任により知藩事を罷免・閉門処分となった。後任の知藩事には、長男の長成ではなく有栖川宮熾仁親王が就任したが、廃藩置県まで12日という短さであった。同年、東京へ移住するため、8月13日に家族とともに福岡を出帆した。港では大勢の藩士や領民が別れを惜しんだ。9月3日、一家は中屋敷であった赤坂邸に到着した(桜田の上屋敷は新政府に献じたため)。同年11月12日(1871年12月23日)、養父長博の勧めもあり、元藩士の金子堅太郎や團琢磨らを従えて、岩倉使節団の海外留学生として欧州・米国に渡り、見聞を広げた。ボストンではアーネスト・フェノロサとの交流もあり、日本の美術や芸術について意見交換している記録の手紙が東京芸術大学に残る。また、留学した際の若き日の黒田長知の写真が保管されている。ハーバード大学を卒業し日本に帰国した。明治11年(1878年)12月28日に隠居し、長男の長成が家督を相続したがまだ養父の長溥も健在であった。明治17年(1884年)に号を如淵と称し、元々文学肌であったため、書や文学、絵、囲碁、将棋などを嗜み、井上文雄・本居豊穎の門人になり数々の書を残す。若い頃に儒学を佐藤一斎から、書を市川米庵に学んでいる。また能楽を大変好み、同じく能好きで知られた実兄の藤堂高潔と共に、幕末以来困窮していた多くの能楽師たちを援助した。中でも旧福岡藩お抱えの観世流や喜多流能楽師シテ方の梅津只圓(娘、千代子は福岡藩士で気象学者の野中到夫人)や、その家元の十四世喜多六平太を重用し自らも能を舞い謡った。六平太と「女流棋士の母」と呼ばれた夫人、喜多文子との結婚も仲介している。長知は教育にも熱心であり、現在の東京都文京区にあった小日向の黒田家別邸に、尋常小学校「黒田尋常小学校」を自費で東京府に寄付し、開校している。のちに人口減少のために廃校、学校の建物は明治時代の貴重な建築で保存運動など反対運動もあったが取り壊され、現在跡地には文京区の福祉センターが建設されている。また、先祖の黒田長政が関ヶ原の戦いの折に必勝祈願し兜の中に入れて参戦したと言われる黒田家の守護秘仏、毘沙門天立像を京都建仁寺塔頭、両足院に寄進している。明治35年(1902年)1月7日、東京・黒田家赤坂本邸にて薨去した。享年64。同日、正二位を贈られた。墓所は青山霊園黒田家墓所にある。
◆黒田 長礼
日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた[要出典]。旧筑前福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を長く務めた侯爵・黒田長成、母は清子(公爵島津忠義の次女)である。妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子は加賀前田家第17代前田利建に、次女の光子は土佐山内家第18代山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。東京府東京市赤坂区福吉町(後の東京都港区赤坂二丁目15~23番、六丁目7番)に生まれる。自邸内に広大な日本庭園があり、植栽や鴨池があったため、幼時より鳥類、植物に親しんで育った。日本における分類生物学の草分けのひとりであり、中西悟堂、内田清之助、鷹司信輔、山階芳麿とともに日本野鳥の会の設立発起人となり会頭となる。また、渡瀬庄三郎、田子勝彌、内田清之助、小林桂助、岸田久吉とともに戦前の日本哺乳動物学会を設立する。絶滅種であるカンムリツクシガモ、ミヤコショウビンが新種として認定されたのは長礼の功績が大きい。『鳥類原色大図説 全3巻』(1933-1934)や『ジャワの鳥』(2巻 1933-1936)、Parrots of the World in Life Colours(1975)などの30冊以上の著書があり、「ブックメーカー」と呼ばれた。『鳥類原色大図説 全3巻』は、昭和8年に宮内省が自費出版した非売品であり、名著と名高く、絵は鳥類画のパイオニア、小林重三が担当し1092種類の絵が描かれている。原画は黒田家が所有していたが、戦災で皆焼けてしまった。 山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』、清棲幸保による『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、大くの鳥類学者に影響を与えた。長禮は生前、「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」との言葉を残しており、彼の没後、黒田家に伝来した宝物や美術品・歴史資料は亡夫の遺志を継いだ茂子夫人により『黒田資料』としてまとめられ、福岡市に寄贈された[3]。『黒田資料』はその後、福岡市東区志賀島出土の『漢委奴国王印』・刀『へし切長谷部』・太刀『日光一文字』(以上3点国宝)や天下三名槍の『日本号』などのように歴史的価値の高いものは福岡市博物館へ、書画など美術的価値の高いものは福岡市美術館へ分けられて収蔵・展示されている。