◆こけし(小芥子)
江戸時代後期(文化・文政期)頃から、東北地方の温泉地において湯治客に土産物として売られるようになった轆轤(ろくろ)挽きの木製の人形玩具。日本の伝統工芸品の一つである。一般的には、球形の頭部と円柱の胴だけのシンプルな形態をしている。江戸時代末期から明治の末年までが、玩具としてのこけしの最盛期であった。しかし大正期になると、こけしはキューピーなどの新興玩具に押されて衰退し、転業・休業するこけし工人も増えた。一方でこの頃から趣味人が好んでこけしを蒐集するようになり、子供の玩具から大人の翫賞物としてその命脈を保つことができた。東京、名古屋、大阪にこけしを集める蒐集家の集まりが出来て、一時休業した工人にも製作再開を促したことで、かなりの作者の作品が今日まで残ることとなった。そうして現代まで残ったこけしの中には骨董品として売買されるものも多い。
◆森竹十郎
明治 28 年、横浜からロシア(ウラジオストク)に渡り、移動写真師となる。 のちペキンスカヤ大通りで開業した。 高橋慎二郎は技師であった。 日露戦争で帰国し、本所小泉町に住んだ。 妻は森きく。長男・森一良が写真師を継いだ。 次男の森二良(本名は森亮介)は、しばらく森一良とともに写真業を継ぎ、大正13年、渋谷で「森兄弟写真館」として営業していた。その期間中に森一良がマラリアで死去。 森二良は 昭和3年まで「森兄弟写真館」を続けたが、昭和4年渡米し、アメリカやフランスなどのスタジオで雇われながら写真技術を研究した。しかし、帰国後の昭和16年には「こけし専門店( 麻布霞町1番地)」に転じて繁盛した。
◆鈴木千里
女性写真師。明治初年、東京新吉原揚屋町で開業。明治10年の新吉原遊廓地図には、揚屋町の箇所に「写真師千里」と記載されている。明治12年の見立番付に「年寄ヨシワラ千里女」と記載されている。明治13年の見立番付に「年寄ヨシワラ千里女」と記載されている。のち、神田小川町(東明館勧工場前)の鈴木攓雲から事業を譲られ、継承している。鈴木攓雲との血縁関係は不詳。近衛一二連隊御用と書かれた広告が残っている。明治20年頃、上海帰りの写真師鈴木千里が日本で初めて「鋳造ゴム印」を伝えたという説が有るが、印判師・藤木節斎(鈴木千里と姻戚関係)が明治15年に横浜の外国人に伝授されたという説もある。藤木節斎は横浜の印章業者であり、明治15年頃、横浜居留地でケヤコ-フという人物からゴム印製法を口述で伝授された。大正初期に神田万世橋(花房町)に藤木美術店を開設して郷土玩具(こけしが中心)を扱い、こけし収集を広めた人物として著名。
◆明石博高
明石氏は、明石竜映の末孫と伝わる。外祖父は蘭方医・松本松翁。祖父・明石弥平善方も蘭学に通じていた。父は明石弥平高善、母は浅子。幼名・弥三郎。実名・博人。字・博高。号・静瀾、万花堂主人。京都四条通堀川西入唐津屋町の医薬商の家に生まれた父の明石弥平高善が早く他界したため、外祖父・松本松翁に育てられた。のち、三条柳ノ馬場に住んでいたと伝わる。国文や歌学を僧・忍向、五十嵐祐胤に学び、儒学を神山四郎に学ぶ。医学については、祖父・明石弥平善方や柏原学介から学んでいる。文久年間、辻礼輔から写真術を学ぶ。文久 2 年、堀真澄(初代)に写真術を教えている。慶応元年、辻礼輔を撮影(湿板写真)。慶応元年、師であった新宮涼閣と「京都医学研究室」を創設し、本格的に医学と化学の研究をはじめる。慶応 2 年、「煉真舎」を創設。理科学、薬学を研究。有馬温泉や京都周辺の鉱泉の成分分析等を試みた。明治 2 年、大阪病院を創設し薬局主管となる。医師はハラタマ、ボードインなどを海外から招へい。また、大阪舎密局でハラタマのもとで助手も務めた。明治 3 年、京都府が京都舎密局を創設。写真の研究を行う。ヘールツ(オランダ人)、ワグネル(ドイツ人)の指導により理化学研究と教育が行われ、京都の伝統産業(陶磁器、織物、染色)や、石鹸、ビール、七宝、ガラス製造などの研究が行われた。明治 7 年、京都で日本最初の医師免許試験の実施を提言。明治 8 年、御池木屋町でドイツ人医師らによる診療を開始。明治 8 年、この地にあった粟田口青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)旧邸を修築して仮病院を設立。診療と医学 教育を開始。明治 13 年、河原町広小路に移転(大正 13 年、京都府立大学附属病院となった。)。明治 14 年、京都舎密局は、植村知事の転任に伴い廃止。府を退いて実業界に入り、後に医業に専念。療養所、病院、製糸場、製紙場、養蚕場、牧畜場などの創設、文化財の保存、博覧会の開催などにあたり、多くの京都の殖産興業、文化事業に尽力した。大型暗箱を携えて近畿地方を撮影した「撮影須知」が残っている。明治 43 年、死去。明石博高の3男・明石国助(明石染人)は、京都市立美大の講師,文化財保護委員会専門委員などをつとめ、明治末頃からこけしを集め、産地訪問やこけしの頒布会までを行った最初の人であったという。