

◆田村初太郎
明治時代のキリスト教系教育者。パシフィック大学教授、梅花女学校校長、第三高等中学校教諭、静岡県尋常中学校浜松分校校長、京都市基督教青年会英語学校校長、平安女学院院長。嘉永5年8月15日(1852年9月28日)江戸八丁堀地蔵橋に田村弘蔵と光の次男として生まれた。幼名は粂次郎。安政2年(1855年)の安政江戸地震では棟木の下敷きになり、下男に救われて焼死を免れた。安政5年(1858年)習字・漢書、元治元年(1864年)開成所で英語を学び、慶応元年(1865年)9月稽古人世話心得、慶応2年(1866年)英学教授手伝となり、5人扶持を給付された。明治元年11月4日(1868年12月17日)父が浜松添奉行となり、一家で転居した。明治2年2月4日(1869年3月16日)駿府の名村五八郎私塾に入り、27日丁髷を廃し、4月2日府中学問所英学四等教授、12月11日三等教授となった。明治3年(1870年)3月東京に出て、4月2日大学南校に入学した。1870年6月22日(新暦)横浜港からアメリカ合衆国へ渡り、7月13日サンフランシスコに到着し、パルマルにキリスト教の指導を受け、その母の家に奉公した。9月オレゴン州フォレストグローヴに移り、パシフィック大学付属中学校に入学し、斎藤金平、能勢栄が合流し、校長S・H・マルシュ宅で割烹、鋸挽き、薪割り、乳搾りをしながら英語、法書を学んだ。1871年12月サンフランシスコで岩倉使節団に会い、官費生となった。1872年大学に進学し、1875年化学教授となり、記帳法、フランス語、分析化学を学び、音楽、写真、花火術を研究した。1876年6月7日大学を卒業し、8月フィラデルフィア万国博覧会を見学した後、9月メリーランド州エリコットシティに移り、セント・クレメンツ・ホール教授となった。12月ワシントンDCを訪れ、1877年1月1日ユリシーズ・グラント大統領と面会、握手した。3月オハイオ州オーバリンに移って同地の神学校に入学し、5月6日第二組合教会でキンケード牧師に洗礼を受け、7月から1878年3月まで同州各地の教会で演説した。1878年(明治11年)2月25日父の急死を聞き、4月卒業を目前に帰国した。9月沢山保羅の世話で大阪英語学校に勤め、10月2日大手通一丁目に講義場・日曜学校を開き、11月1日浪花教会に入会した。1879年(明治12年)8月18日梅花女学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)大阪中学校雇、1881年(明治14年)教諭。1882年(明治15年)9月10日天満教会に移籍して執事となり、1883年(明治16年)5月梅花女学校校長職を沢山保羅に譲った。7月21日パシフィック大学からMaster of Artsを授与された。1885年(明治18年)9月大学分校教諭、12月教務課主事、1886年(明治19年)4月4日第三高等中学校教諭。1889年(明治22年)7月第三高等中学校の京都移転に伴い、9月14日河原町通下切通上ル出水町に移り、10月基督教講義所執事となった。1890年(明治23年)第三高等中学校教授。1894年(明治27年)8月29日第三高等中学校解散により非職となり、10月27日静岡県尋常中学校浜松分校校長となったが、1895年(明治28年)2月9日辞任し、22日平安女学院教頭となった。1897年(明治30年)1月29日ジョン・マキム監督に堅信を受けて聖公会に入会し、1898年(明治31年)関西女子高等学校理事、1899年(明治32年)7月20日同志社理事となった。1903年(明治36年)京都基督教青年会創立に関わり、10月19日理事、26日会長となり、1904年(明治37年)英語学校を設立して校主、1907年(明治40年)9月校長となった。1908年(明治41年)平安女学院院長、1915年(大正4年)校長となった。1913年(大正2年)9月22日京都帝国大学文科大学講師となり、ラテン語を教えた。1915年(大正4年)5月20日尿毒症を患い、21日午前1時10分死去し、聖三一教会で葬儀が行われ、若王子墓地に埋葬された。
◆長 勇
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。福岡県糟屋郡粕屋町出身。農業・長蒼生の長男として生まれる。中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。陸士同期に白銀重二、森赳、中西良介、近藤新八、宮崎周一、一木清直らがいる。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第56連隊附となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。陸大40期には額田坦、今井武夫、片倉衷らがいる。陸大卒業後の1929年(昭和4年)1月、歩兵第48連隊中隊長。次いで参謀本部附勤務(支那課)となる。1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。同年12月、参謀本部部員。1931年(昭和6年)の三月事件・十月事件を計画。橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。十月事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている。1931年(昭和6年)8月、陸軍歩兵少佐に進級。1933年(昭和8年)8月、台湾歩兵第1連隊大隊長。第16師団留守参謀を経て、1935年(昭和10年)12月、陸軍歩兵中佐に昇進し参謀本部部員(支那課)となる。兼陸大教官、参謀本部附(漢口武官)を歴任する。1937年(昭和12年)8月、第二次上海事変が勃発すると、上海派遣軍参謀として出征。中支那方面軍が編成されると同方面軍参謀を兼務する。同年12月、朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀として、南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った中支派遣軍司令官の松井石根大将にたしなめられたという逸話がある。1938年(昭和13年)3月、朝鮮軍隷下の歩兵第74連隊長となり、同年7月、陸軍歩兵大佐に進級。張鼓峰事件に参戦。1939年(昭和14年)3月、第26師団参謀長。台湾軍司令部付、印度支那派遣軍参謀長、第25軍参謀副長、陸軍省軍務局付などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。同年11月、南方軍司令部附(仏印機関長)となり太平洋戦争に出征。1942年(昭和17年)7月、兼軍務局附となり、第10歩兵団長、参謀本部附を歴任。1944年(昭和19年)3月、関東軍総司令部附。同3月1日より機動第一旅団長。同年6月に参謀本部附となり、同年7月、沖縄防衛を担当する第32軍の参謀長となる。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進級。沖縄戦を戦うがアメリカ軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内の第32軍司令部で、第32軍司令官の牛島満大将とともに割腹自決。
◆生田寅雄
大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。山口県出身。1911年(明治44年)陸軍士官学校第23期卒業、陸軍歩兵少尉に任官。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐・沖縄連隊区司令官、1939年(昭和14年)8月に近衛師団司令部附、同年11月に近衛歩兵第2連隊補充隊長、1941年(昭和16年)4月に留守近衛師団司令部附、同年6月に第23軍特務部長、1942年(昭和17年)2月に第10独立守備隊長を経て、同年8月に陸軍少将に昇進。 その後、1943年(昭和18年)6月に東部軍司令部附、1944年(昭和19年)1月に第1警備司令官を経て、同年9月に独立歩兵第7旅団長に任ぜられ、南昌にて終戦を迎えた。
◆山本信行
日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。山口県出身。1875年(明治8年)1月、陸軍少尉に任官。1896年(明治29年)9月、歩兵第35連隊長となり、1897年(明治30年)10月、中部都督部参謀に異動。1898年(明治31年)10月、歩兵大佐に昇進し歩兵第29連隊長に就任した。1900年(明治33年)4月、台湾補給廠長に就任し、第6師団参謀長を経て、1903年(明治36年)3月、歩兵第4連隊長となり日露戦争に出征。鴨緑江会戦から参戦した。1904年(明治37年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長となり第3軍隷下として旅順攻囲戦に参加。同年9月、第2回総攻撃の前哨戦で戦死した。1907年(明治40年)10月2日、その功績により子息の山本信成が男爵の爵位を授爵し華族となった。
◆秋田三一(旧姓:武光三一)
日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。戦後は、秋田商会会長、日本汽船社長、柏木体温計社長、山口県商工経済会会頭などを務めた。趣味は剣道、尺八。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市平田町、山口県下関市東南部町(現南部町)。
◆杉山正雄
1903-1983 大正-昭和時代の社会運動家。明治36年2月3日生まれ。武者小路実篤(むしゃのこうじ-さねあつ)が宮崎県児湯郡(こゆぐん)木城(きじょう)村にひらいた「新しき村」の会員。大正11年入村。実篤が妻房子と離婚して村をはなれたあとも村にのこり,昭和7年実篤の養子となり,房子と結婚。村の常務理事をつとめた。昭和58年4月28日死去。80歳。山口県出身。旧制山口高中退。
◆萬野友次郎
金光教水前寺教会、熊本教会初代教会長。文久2年8月1日生 大正10年5月20日帰幽。本籍 赤間関市(現在の下関)裏町。明治20年姉ツネに導かれ、下関教会・西城種吉師の許に参拝講社下関組の世話係になる。同23年御霊地参拝、二代金光四神様の御命で大阪難波教会に上阪、近藤藤守師の教導をうける。同25年8月2日二代金光四神様の御神命で御神璽を捧じて御霊地を出発、下関教会長・西城種吉師の御取次を頂かれて、単身熊本に赴任。同年8月20日金光教教師任命・教師番号なし。同25年10月&熊本県飽田郡古町村双樹で取次の業に従う。同27年2月22日神道金光教熊本説教所として熊本県知事から認可。同29年大神ヒロと結婚、3男1女に恵まれる。同33年9月10日金光教熊本教会所となり、教会長に任命(35歳)。同38年12月28日熊本市中心部への布教を志し、熊本市上通り17番地(通称一本竹)へ移転、布教を始めた当初の教会は、教会名を二本木教会と改称し、門弟の福岡平三郎師に後継する。同45年(大正元年)熊本市昇町33番地(90坪購入)へ教会会堂を新築し移転。大正8年3月28日大講義任命。同10年福岡・重松(源)・宮本(実)・堀・宮本(マツ)・重松(藤)・縄田・柴田の8師を門弟にする。同15年5月15日権小教正任命。
◆田邊方亮
台湾総督府勤務。
◆富重利平
写真師・旧姓は篠倉利平。天保 8 年、篠倉久助の長男として生まれる。 のち富重久吾の養子となった。 安政元年、長崎に行き商売を志す。 文久 2 年、写真術を習得するため、長崎今下街の亀谷徳治郎から学んだ。 元治元年、亀谷徳治郎が京都で開業したため、長崎で上野彦馬から写真術の教えを受ける。 慶応 2 年、筑後柳川町で開業。 明治 2 年、肥後国高瀬藩主・細川能登守利永の招きで高瀬(玉名市)に移る。 まもなくして、熊本藩家老・米田監物是豪(文献によっては、細川藩の家老・長岡監物とある)の招きに 応じて熊本に赴いた。 明治 3 年、新町一丁目(新堀町)に移る。 明治 4 年、陸軍少将・井田譲を撮影。また、井田譲の依頼により旧藩邸を撮影。 明治 5 年頃、熊本城・山崎練兵場・水前寺公園などを撮影。 明治 9 年、塩屋町裏二番町に移転。 明治 10 年、西南の役の際を撮影。 また夏目漱石、小泉八雲なども撮影している。 明治 11 年、谷干城など軍幹部を撮影。 明治 24 年(30 年とも)、熊本の写真師同盟を発足し、自ら会長となる。 明治 26 年、第 6 師団長・北白川宮能久親王を撮影。北白川宮能久親王に写真術を指導した。 明治 31 年、九州写真師同盟会熊本支部長。 明治 33 年、大日本写真協会熊本支部長。 明治 36 年、第五回内国勧業博覧会に出品し三等賞牌を受賞。 明治 36 年、熊本商業会議所副会頭。 明治 36 年、富重徳次が手伝いに入る。 明治 40 年、大日本写真師大会にて全国来賓総代。 明治 43 年、ドイツ、ドレスデンの万国衛生博覧会に出品。 大正 11 年、死去。安国寺に葬られた。 昭和 38 年、熊本県近代文化功労者に選定。 建物は有形文化財に指定されている。富の字を冨重(冨重写真館、冨重利平、冨重徳次)と記載する資料もあるが、ほとんどの台紙と現地に残る当時の看板を見ても、冨ではなく「富」が正しい。
◆加藤神社(撮影場所)
熊本県熊本市の熊本城内にある神社である。正月三が日の参拝者数は年々増加しており、藤崎八旛宮に匹敵する人数となっている。加藤清正公を主祭神とし、祭神に殉じた大木兼能公、韓人(朝鮮人)金官(きんかん)公を配祀する。元は慶長16年(1611年)の清正の歿後に清正を祀った浄池廟であった。慶長19年(1614年)、火災で焼失した本妙寺が浄地廟に移された。神仏分離により明治元年(1868年)、浄地廟の儀式を神式で行うこととなり、同4年、浄池廟・本妙寺より神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社(にしきやまじんじゃ)とした。場所は大天守、小天守、宇土櫓に囲まれた平左衛門丸である。同年、大木兼能と金官を合祀した。同7年、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の新堀町(現在の京町一丁目)に遷座し、翌8年県社列格、同10年2月、西南戦争により社殿を焼失し(神体は健軍神社に避難していた)、明治17年に再建した。明治42年(1909年)に、錦山神社から加藤神社に改称された。乃木希典も加藤清正を信仰していたこともあり、各地に分霊を祀る加藤神社ができた。同44年にはハワイに、大正3年(1914年)には日本統治下の朝鮮・京城府(現 大韓民国ソウル特別市)に当社の分霊を祀る加藤神社が創建された(京城府の加藤神社は戦後に廃社。跡地は聖山教会になっている)。加藤清正を祭る神社は一時90社を数えるが、一部例外(鹿児島県など)を除き全国的に分布し、その約半分は熊本県にある。昭和27年(1952年)、宗教法人加藤神社となった。同37年、道路改修のため、熊本城内の現在地に遷座した。