【古写真の調査後売却】人力車に乗る外国人の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】人力車に乗る外国人の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)

◆幕末明治期、日本の人力車
日本では、主に明治・大正期に移動手段とし用いられた。現在では「観光人力車」が観光地などで使われている。1870年(明治3年)和泉要助が発明したと言われる。江戸時代以前には存在せず、代わりに輿や駕籠が使われていた。馬車や馬車鉄道、大砲や荷車を曳かせる軍馬のために街道の道路状況が整地・舗装など整備され普及した。その後、鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。東京銀座7丁目に、日本で唯一という芸者送迎専用の人力車の車宿「日吉組」がある。日吉組は旧地名の日吉町にちなんだ名で、所属の車夫・久は映画『あげまん』にも登場し、幌で覆われた一人用の人力車で芸者を送る場面が描かれた。また、車椅子に着脱式の持ち手を装着して人力車スタイルにし、障害者や高齢者の移動を助ける補助装置が開発されている。当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。明治4年旧暦12月、人力車の数は、東京府下で4万台、京都数十台、静岡・草津1台。1870年、東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。

人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている。19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという。人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となり、明治20年代には東京市内に4万人余も存在したが、その後都市交通の発達により数を減少させていった。また、人力車夫の中には女性もいたといわれている。初期の人力車は、箱に車輪を取り付けただけの単純な構造であったが、日進月歩で改良されて、凸凹道でも耐えうるスプリング付きの車輪が登場するようになり、木輪はゴム輪に変わり、その後空気入りのゴムタイヤへと改良されていった。

また、1870年代半ばより中国を中心として東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して大きな富を得た。他方、当初人力車の製造と使用を許可された和泉たちは激増する車夫たちすべてから使用料を取ることができず、また当時の特許制度(「専売略規則」)の不備・使いにくさもあいまってほとんど利益を上げることができなかった。この事実が、後に日本に本格的な特許制度の誕生をうながした。

日本では、1895年の京都電気鉄道開業を皮切りに、各都市で電車が導入された。首都圏でも1899年に大師電気鉄道(現京急大師線)が開業するが、人力車夫の反対により部分開業となった。東京で1903年の市電開業時に4万3千人いた車夫は、2年後には2万6千人になり、人力車は急速に姿を消していった。1903年6月12日、大阪の人力車夫は、巡航船の市内河川運航に反対して休業、土佐堀青年会館で集会を開き、一部は巡航船を襲撃した。大量失業に見舞われた車夫は、1905年の日比谷焼打事件など、この時期の都市騒擾で市電を焼くなどの敵意を見せた。1908年4月上旬、警視庁の老車夫鑑札取上げに反対する東京老車夫救済会が結成された。1909年、人力車の車輪がゴム車輪となり、賃借料が値上がりし、借車で営業している車夫の廃業がふえた。1912年4-5月ころ、空気タイヤ人力車が登場し、10月24日、新車の高額賃借料をおそれた車夫300人が警視庁に使用制限を嘆願した。 1914年、東京駅が竣工すると500台を有する組合が結成された。当時は駅から降りた人が使う唯一の乗り物が人力車であっただけに、1人で1ヶ月200円(約100年後の現代において80万円前後)ほどの収入があったことが伝わる。 大正時代にはさらにタクシーが出現し、人力車の衰退に追い打ちをかけた。大正時代には人力車の姿はほとんど見えなくなった。その後は、観光地で明治時代の文化であった人力車を復活する動きが出て、観光客向けにサービスを提供するようになった。