

◆閑院宮載仁親王妃智恵子
日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。三条実美公爵令嬢。母は鷹司輔煕の九女・治子。6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、「花堤」の雅号を持つ。1891年(明治24年)閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には篤仁王(夭折)、恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人)、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女を儲けた。上から三姉妹は自分と同じ跡見女学校へ通わせ、春仁は学習院、下の二姉妹は女子学習院に通わせた。篤仁王のほか、季子女王は腎臓病、寛子女王は関東大震災での被災により、いずれも成人を迎えずに没している。邸内に学問所を設けて教師を参内させるなど、王子王女の教育に熱を入れる一方、社会公共の事業にも精力を傾け、大日本婦人教育会や日本赤十字篤志看護婦人会の総裁を務めた。日露戦争の時には、愛国婦人会の総裁に就任した。1947年(昭和22年)3月19日、小田原市にある閑院宮邸で薨去した。満74歳没。3月26日に東京都文京区の豊島岡墓地で葬儀が行われた。
◆清野長太郎
日本の内務官僚。憲政会系官選県知事、復興局長官。香川県高松出身。高松藩士・清野彦三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1895年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。富山県参事官、神奈川県参事官、内務省地方局町村課長などを歴任。1906年1月、秋田県知事に就任。同年11月、南満州鉄道理事に転じた。1916年4月、兵庫県知事に発令され、1919年4月まで在任。1924年6月、憲政会の加藤高明内閣が成立すると神奈川県知事に就任。関東大震災復興事業を推進した。1925年9月、復興局長官に転じ、首都復興計画を推進し、現職で死去。
1912年(明治45年)3月1日 – 従四位
1910年(明治43年)12月26日 – 勲三等瑞宝章
1920年(大正9年)11月1日 – 旭日中綬章
1926年(大正15年)9月15日 – 帝都復興記念章
◆跡見花蹊
日本の教育者、日本画家、書家。学校法人跡見学園の創設者。甥は浦和画家の跡見泰。摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。本名は瀧野。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵に漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立・中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。その後1859年(安政6年)に大坂に戻り、父が大坂・中之島(現在の大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。その後1866年(慶応2年)に京都に移って私塾を開く。1870年(明治3年)には京都の私塾を閉じて上京し、東京神田猿楽町で私塾を開く。次いで明治8年(1875年)には東京・神田中猿楽町(現在の東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。この跡見女学校が、現在の跡見学園のルーツとなっている。幕末・明治維新の混沌を目の当たりにしたことで女子教育の重要性を認識したことが、跡見の教育方針の原点となっている。跡見女学校では古来の文化や風俗を重視し、漢学や書道、茶道、体操などを導入し、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。1871年(明治4年)3月8日、外務省から清国向けの画帖を依頼される。この作品は現在、台北の国立故宮博物院に『故画 清花蹊女子冊頁』として所蔵されている。故画とあることから、当時の清国皇帝同治帝に献上されたものと考えられ、日清修好条規を締結する際に、日本国から清国皇帝に献上されたものの一つとされた可能性が高いとされる。1887年(明治20年)3月9日、『東京日日新聞』に花蹊訃報の誤った記事が掲載され、お悔やみを述べる使者が次々と訪れ、お供え用の花、菓子、香典まで届く事態となる。そのようななかでも花蹊は、いつもどおりに授業を行い、数日後には、跡見女学校の転居地として小石川柳町の土地を決める。このエピソードは教育者としての花蹊の熱意を物語るものといえよう。また教育者としてだけでなく、日本画家書家としても活躍した。明治5年(1872年)と26年(1893年)御前揮毫の栄誉を賜り、学校経営者としてのみならず画家としても著名だった。書家としても「跡見流」といわれる書風を築き上げた。
◆清野クニ
旧姓は小川クニ。神奈川県、小川操の養女。清野長太郎の妻となる。
◆細川護立侯婦人
池田詮政の長女・細川博子