
◆松島 (防護巡洋艦)
日清戦争及び日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦である。1892年4月5日、竣工し第一種に編入。1898年3月21日、二等巡洋艦に類別された。清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島、橋立。明治維新後の混乱の時期を過ぎると、世界的な帝国主義の波の中で、日本は国土防衛と海外進出のために朝鮮半島を生命線とする国家戦略を立てていた。これに対立するのが歴史的に朝鮮の宗主国をもって任じていた清国であり、次第に日清両国の衝突は避けられないものと認識されるようになった。1885年に清国北洋艦隊が就役させた定遠、鎮遠の定遠級戦艦2隻は日本海軍にとって大きな脅威となった。定遠級(基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mm)は日本海軍はもちろん、列強海軍が東アジアに配備していたどの大型艦をも凌駕する巨艦であった。定遠級戦艦に対抗するため、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲(カネー砲)を装備して建造されたのが松島型防護巡洋艦、いわゆる「三景艦」である。松島は後部甲板、他2隻は前部甲板に据え付けられた。建造に際して設計技師士官エミール・ベルタンはフランス海軍の防護巡洋艦のように中口径砲を多数装備し、機関出力に優れる高速型の巡洋艦を提案した。しかし、日本海軍は機関出力や装甲を切り詰めてでも32cm砲を装備することにこだわり、当時の日本の港湾施設では4,000t台の艦艇が運用しうる上限の大きさであったこともあって、本艦は巡洋艦級の船体に比して大きすぎる32cm砲を搭載する艦艇となった。そのために32cm砲砲塔を首尾線方向から左右に旋回すれば砲身の重みで艦が傾斜して計算通りの仰角が取ることが出来ず、発射すれば反動で姿勢が変化し進路にまで影響を及ぼすという欠陥があった。32cm砲の操作は技術的に未熟な日本海軍にとって難しく、故障が頻発し戦力化するには時間を要した。また、黄海海戦では、松島が発射した32cm砲弾は4発、他の三景艦も厳島が5発、橋立が4発だけである。鹵獲した鎮遠の検分では、32cm砲弾の直撃破孔が1つあったとされるが、命中弾はなかったとする説もあり、32cm砲が実戦で威力を発揮することはなかった。1894年9月17日15時30分、黄海海戦において左舷4番12cm砲郭に鎮遠の30.5cm砲弾が命中、装薬が誘爆して大破し、57名が戦死した。日露戦争では、哨戒と掃海活動に従事した。1908年(明治41年)4月30日、海軍兵学校第35期卒業生の少尉候補生による遠洋航海で寄港した澎湖諸島の馬公で、火薬庫爆発を起こして轟沈した。殉職者は、艦長と副長を含む乗員221名、少尉候補生33名、計254名に上った。死亡者には、大山巌の長男である大山高 少尉候補生、瓜生外吉の長男である瓜生武雄少尉もいた。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。この時、僚艦橋立に乗組んでいた永野修身大尉(当時)が真っ先に短艇を指揮して救援に向かったという話がある。なお、日清戦争直前の1893年11月30日改正の「軍艦団隊定員表」によると、松島型の三景艦はいずれも、大佐(艦長)1名、少佐(副長)1名、大尉7名、少尉7名、機関少監(機関長)1名、大機関士3名、少機関士1名、大軍医2名、少軍医1名、大主計2名、少主計1名、上等兵曹3名、機関師4名、船匠師1名、1等下士20名、2等下士22名、3等下士15名、1等卒53名、2等卒96名、3等卒及び4等卒は合せて114名、以上、士官27名(内兵科16、機関科5、軍医科3、主計科3名。)、准士官8名、下士57名、卒263名、総計355名とされた。
◆浪速 (防護巡洋艦)
日本海軍の防護巡洋艦(二等巡洋艦)。 浪速型の1番艦。日本海軍にとって、最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である。 艦名は大阪(摂津国)の古称「浪速」にちなんで名づけられた。 日清戦争時、東郷平八郎艦長(当時、大佐)の指揮下で活躍した。1884年(明治17年)3月22日、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社のロー・ウォーカー造船所で「浪速」は起工。3月27日、日本海軍はイギリスで建造中の軍艦2隻を、「浪速」および「高千穂」と命名する。 1885年(明治18年)3月10日もしくは3月18日、山階宮(のちの東伏見宮依仁親王)臨席のもとで本艦は進水。5月26日、2隻(浪速、高千穂)は二等艦と定められる。 1886年(明治19年)2月15日、竣工。1886年「浪速」は回航委員長井上良馨大佐の指揮下で日本に回航。 同年6月26日、品川に到着した。 1893年から翌年にかけて、ハワイ革命勃発による邦人保護のため、二回にわたりホノルルに派遣された。日清戦争では、豊島沖海戦、黄海海戦、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加]。1894年(明治27年)7月25日の豊島沖海戦の際に、清国兵約1200名を輸送中のイギリス船籍汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇し、東郷平八郎大佐(浪速艦長)は国際法上の手続きを経た後に同船を撃沈した(高陞号事件)。1897年(明治30年)4月から9月にかけて、ハワイ移民上陸拒否事件への対処のためホノルルに派遣された。1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義。 該当する9隻(浪速、高千穂、厳島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳)が二等巡洋艦に類別された。同年5月から8月にかけて、米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣。北清事変では1900年より翌年にかけて、北清沿岸警備に従事した。日露戦争に際しては、第四戦隊(司令官瓜生外吉少将)の旗艦として仁川沖海戦・蔚山沖海戦、日本海海戦等に参加。 日本海海戦では被弾し損傷を受けた。1909年(明治42年)、浪速は推進軸の腐食が進み、以降の全力運転が制限された。1910年(明治43年)10月21日に内報が発せられ、来年4月上旬から警備、測量のために千島列島、カムチャッカ半島、オホーツク海方面に派遣、という内容だった。 浪速はその準備のために修理の他に測深儀、測程儀などを装備した 。 同年8月5日、除籍、 艦艇類別等級表からも削除された。 8月22日に残骸売却の訓令が出され、 翌1913年(大正2年)6月25日買受人に引渡された後日、横須賀工廠長坂本一中将を判士長とする軍法会議が開かれ、本田(当時浪速艦長)は罰金700円、浪速航海長は罰金400円の判決を受ける。 本田は少将進級後、予備役に編入された。