【古写真の調査後売却】陸軍中将・山内静の家族写真(台紙貼付)

【古写真の調査後売却】陸軍中将・山内静の家族写真(台紙貼付)

◆陸軍中将・山内静夫
大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。満洲電信電話株式会社総裁。旧名は岱亮。京都府に山内覚道の二男として生まれ、山内政銓の養子となった。京都府立中学校を経て、1897年(明治30年)11月29日に陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月27日に工兵少尉に任ぜられ、同日付で近衛工兵大隊付に補される。1900年(明治33年)11月21日に工兵中尉に昇進後、陸軍砲工学校(9期)普通科を優等で卒業し、同校高等科卒業後もさらに員外学生として在学した。1904年(明治37年)3月24日に工兵大尉に昇進し陸軍士官学校教官に補せられた後、1907年(明治40年)7月11日に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。その後、大本営野戦高等電信部副官、青島守備軍司令部附交通兵団副官を経て、1909年(明治42年)11月30日に工兵少佐に昇進し、陸軍砲工学校教官を経て、1916年(大正5年)5月2日に工兵中佐に昇進し交通兵団司令部御用掛を命ぜられ、参謀本部御用掛を経て、1918年(大正7年)11月1日に工兵大佐に昇進。さらに、陸軍技術本部部員、陸軍省兵器局機材課長を経て、1923年(大正12年)8月6日、陸軍少将に昇進し陸地測量部長に就任。その後、陸軍技術本部第二部長、築城本部長を歴任し、1928年(昭和3年)3月8日、陸軍中将に昇進した。1932年(昭和7年)8月8日、待命となり、同月30日予備役に編入された。その後、南満州鉄道株式会社顧問となる。1933年(昭和8年)に満洲電信電話株式会社が設立されると取締役、ついで総裁に就任し、1937年(昭和12年)まで務めた。1961年、死去。

◆山内節(妻)
陸軍中将男爵・山内長人の二女。母は高橋満寿(東京、高橋寿の長女)。兄弟に山内長世、山内錦子(兵庫、山内三吾の妻)、山内寿江(熊本市長 辛島知己の妻)。父の山内長人は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、軍功は正三位・勲一等・功四級。貴族院議員。爵位は男爵。本籍神奈川県。江戸で幕臣の山内長敏の子として生れる。母のかねは藤田官次の二女。明治5年2月14日(1872年3月22日)、陸軍中尉に任官。1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校次長となり、1890年(明治23年)8月、陸軍幼年学校長に就任。1892年(明治25年)12月、陸軍省大臣官房長心得となり、1893年(明治26年)8月、陸軍省高級副官に就任。同年11月、歩兵大佐に昇進し、日清戦争に対応した。1897年(明治30年)7月、大臣官房人事課長となり、同年9月、陸軍少将に進級し歩兵第18旅団長に就任。1899年(明治32年)2月、憲兵司令官に就任し、1902年(明治35年)9月、休職した。1904年(明治37年)2月、留守近衛歩兵第2旅団長として復帰し日露戦争を迎えている。1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進み、翌年4月に休職した。1907年(明治40年)3月2日、予備役に編入され、同年9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1913年(大正2年)4月1日、後備役となる。1911年(明治44年)7月10日から1929年(昭和4年)2月4日まで貴族院議員に在任し、公正会に所属して活動した。墓所は雑司ヶ谷霊園。