
別名は板倉槐堂、板倉筑前介。父は医師で儒者・下坂篁斎。下坂家は、中世に浅井氏の家臣として活躍した豪族。 実弟は勤王の詩人・江馬天江。本名は緝、別称は重涂・緝・敬天・頑山。のち「おひや薬」という薬で著名であった京都の薬種商・武田家に養子に入る。 尊王攘夷派の志士として倒幕運動に奔走し、京都に出入りする志士たちから慕われたという。坂本龍馬、中岡慎太郎が近江屋で暗殺された部屋に飾られていた掛軸「梅椿図」は、槐堂が龍馬の誕生祝い に描いたもので、血痕が残る掛軸は国指定重要文化財に指定された。安政 2 年、醍醐家に仕え板倉姓を賜う。従六位、筑前介に任じられた。長崎から入る西洋文献をよく取り入れており、暗箱写真機を取り寄せて写真術の実験なども行った。安政 6 年、撮影した鳩居堂七代目当主熊谷直孝の写真は、現存する国内の写真では 2 番目に古いものとさ れ、京都市有形文化財に指定。慶応 4 年、大津裁判所参謀となり醍醐家を退身。板倉姓を返上し淡海姓として、「淡海筑前介」を称した。明治 3 年、位記を返上して、槐堂を号した。晩年は志士の遺骸を洛北に改葬し、霊山招魂場を設けた。明治 12 年、死去。
生年/出身: 1822 滋賀(坂田郡下坂本村)
開業年:
開業地、主要拠点: 京都
師匠:
弟子: