【古写真の調査後売却】大分中津藩・耶馬渓六十六景「44番・宇曽の景」の風景写真(鶏卵紙)

【古写真の調査後売却】大分中津藩・耶馬渓六十六景「44番・宇曽の景」の風景写真(鶏卵紙)

◆耶馬渓
大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷。日本三大奇勝として知られ、日本新三景に選定され、名勝に指定されている。耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地の侵食によってできた奇岩の連なる絶景である。凝灰岩や凝灰角礫岩の山には風食作用や河川の洗掘作用によってできた洞窟も多い。1818年(文政元年)に頼山陽が擲筆峰周辺(耶馬溪町柿坂地区)を訪れ、当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである。頼山陽が耶馬渓と命名したのは、現在単に「耶馬渓」と呼ばれている辺りだけであるが、その後周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われ、本耶馬渓・裏耶馬渓・深耶馬渓・奥耶馬渓などと称している。1916年(大正5年)に日本新三景の一つに選ばれている。1923年(大正12年)には名勝に指定され、1950年(昭和25年)に一帯が耶馬日田英彦山国定公園に指定された。名勝としての指定地域は、中津市のほか、日田市、宇佐市、玖珠町、九重町を含む。また、2017年(平成29年)には「やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく」として日本遺産に認定されている。日本三大奇勝のひとつともされる。なお、「山国谷」に「ヤマ」と「クニ」の音が含まれること、「耶馬」は「邪馬」と字形が似ており「ヤマ」とも読めることから、邪馬台国の比定地をこの地に求める説もあるが、上述のように耶馬渓という名前は江戸時代まではなかったのであり、他の面からの研究によってもその可能性は低いと考えられている。「耶馬溪の自然と景観を守る」が、平成25年度国土交通省手づくり郷土賞受賞。

◆中津藩
豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高(如水)が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万3100石で加増移封された。代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。同年、播磨明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し、再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の長円が半減の4万石をもって跡を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。1844年(弘化元年)、藩校『進脩館』に小幡篤次郎が入門、明治4年に福沢諭吉の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され9代藩主・奥平昌邁と共に藩士らは江戸藩邸の慶應義塾へ移った。奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。府内藩は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の跡は子の重義が継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易された。代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に無嗣改易された。その後、吉明の義理の甥(正妻の兄弟の子)にあたる大給松平家の豊後高松藩主松平忠昭が2万2200石と徳川幕府天領の管理を受け明暦4年(1658年)2月24日に入封。以後は大給松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。明治4年(1871年)、廃藩置県により府内県となり、後に大分県に編入された。