【古写真の調査後売却】栃木県日光市・神橋の明治初期写真(鶏卵紙)

【古写真の調査後売却】栃木県日光市・神橋の明治初期写真(鶏卵紙)

神橋(しんきょう)は、栃木県日光市上鉢石町にある、大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗りの橋。世界遺産「日光の社寺」を構成する文化財の1つ。日本の重要文化財に指定されている。

日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。神橋を境として、東側の商店街を東町(出町)、西側の日光山内を西町(入町)という。神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。現代は一般に「しんきょう」と読まれるが、『日光名所図会』(石倉重継 著、1901年)は「みはし」と読むと記している。「みはし」という読みに対しては「御橋」の字を充てることもある。

橋の先に日光東照宮へ通じる参道がある。かつては将軍・日光例幣使と山伏しか渡れなかったが、現代は有料で一般人も渡ることができる。ただし橋を通って対岸は行けず、来た道を引き返さなければならない。

乳の木(ちのき)と呼ばれる橋桁を両岸の土中または岩盤中に埋め込み、斜め上向きに刎ね出し、その先端を石製の橋脚で支持するという珍しい工法でできており、重要文化財指定を受けた橋の中では唯一採用されている工法である。神橋を架け替える際、乳の木を取り除く儀式を「外遷宮」、新しい橋桁を架ける儀式を「正遷宮」といい、社殿を造り替えるのと同様の厳格な神事を執り行う。また橋が竣工すると、最初に葦毛のウマを渡らせる。神橋には橋姫明神を祀り、橋姫明神が縁結びの神とされることから、日光二荒山神社で結婚式を挙げた夫婦は神橋で渡り初めを行う。これらのことから神橋が単なる橋ではないことが窺える。

神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」である。大谷川は中禅寺湖から華厳滝を流下し、支流を集めながら日光の社寺の前に流れ出る。日光の社寺の厳かな雰囲気の中、大谷川の青い急流と朱塗りの神橋の対照が独自の景観を形成する。背後の山々が紅葉した秋の神橋、雪の積もった冬の神橋が美観とされる。年末には、3 mの竹ほうきを使って神職や巫女がすす払いを行う。

日本三大奇橋(日本三奇橋)の1つとされることがある。ただし、一般的には錦帯橋・猿橋・愛本橋の3橋を指し、愛本橋の代わりに神橋を入れることがある。

伝説
日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。

神橋の南には明星天子を祀る岩裂神社(いわさくじんじゃ、星の宮とも)、神橋の北には深沙大王を祀る深沙王堂(深沙王祠)がある。また輪王寺は勝道が橋を渡った先に建立し、修行を積んだ四本龍寺(しほんりゅうじ)を起源とするという伝説がある。

伝説の解釈
神橋の伝説は、日光の旅行ガイドブックには必ずと言っていいほど掲載されており、知名度の高いものである。この伝説の元になった話は『補陀落山建立修行日記』に記載されており、同書は勝道の弟子4人が勝道没後の弘仁9年(818年)に著したという奥付があるが、実際には平安時代末期から鎌倉時代にかけての間に成立したと見られる。神橋の伝説は「伝説」である以上真実ではないが、何らかの事実を含んでいると見ることができる。伝説の中から何らかの事実を読み解く上で、神橋がなぜ現在位置に架橋されたのか、深沙大王・ヘビ・橋がそれぞれ何を象徴するのかを考える必要がある。

藤井万喜多は、神橋の伝説が仏教徒と日光の先住民(狩猟民・マタギ)が親和的な関係になったことを示す寓意的表現であり、新たな宗教である仏教が持ち込まれたことに対する仏教徒と日光の先住民の動向を反映したものであるとの説を立て、広く支持された。日光東照宮禰宜の高藤晴俊は、藤井説を補強し、勝道の名に仮託された新米の仏教徒らが大谷川の水神を祀る集団から日光への入域を認められたことを象徴する表現であったとの説を提示した。高藤は藤井説で十分に説明できない橋・ヘビの意味、神橋の位置について次のように説明した。橋は聖と俗、神と人の世界を結ぶ境界であり、祭祀の場である。また『古事記』の誉津別命や『太平記』の藤原秀郷の渡河にかかわる物語に水神としてヘビが登場し、橋の上に現れるという共通性から、深沙大王とヘビは大谷川の神であり、神橋は川の神を祀る祭場であったと考えられる。さらに神橋より8 – 9間(15 m前後)上流にさかのぼった場所に高座石があり、この石が川の神の神体であったと見なせば、その祭祀場として神橋を現在地に架けたのは自然なことである。ただし神橋で祭祀が行われていたという文献記録は存在しない。

高藤は山菅の蛇橋の「山菅」について、神事の際に草を敷物として使うことから、草の敷物には特別な意味があり、橋の名にしたという説を提示した。