天田 愚庵(あまだ ぐあん)

父は磐城平藩士・甘田平太夫(号は平遊)。母は磐城平藩医・林竜沢の娘・浪。 5 男として誕生。本名は五郎。幼名は久五郎、別名は天田鉄眼。 兄弟の多くは夭折し、15 歳の時点では長兄(善蔵)と妹(延)の 2 人であったという。 明治元年、戊辰戦争において磐城国も戦場となり、兄・善蔵が出陣し、父は家族を連れて中山村に疎開。 のちに天田愚庵も戦場に赴いたが城は陥落し、仙台へ落ち延びた。 その際、疎開していた父母妹が行方不明となる。 その後、帰藩し謹慎となるが翌年解かれ、藩校・佑賢堂に入校。 明治 4 年、藩校で知り合った伊藤祐之と共に、神田駿河台のニコライ神学校に入る。明治 5 年、当時の最高官庁の役職(正院)にあった小池詳敬の食客となり、紹介で山岡鉄舟(幕臣、宮内 大丞、宮内少輔)の門下となる。 同時期に落合直亮(浪士隊副総裁。維新後伊那県(長野県)大参事、伊勢神宮禰宜、のち浅間神社宮司)の もとで国学を学ぶ。 明治 7 年、小池詳敬(正院大主記)に同行し東海道・中国・九州歴訪で長崎に滞在した際、佐賀の乱が起 こり、誤認で投獄される。 獄中で万葉歌人の丸山作楽(外務大丞、元老院議官、貴族院勅選議員)と出会い、短歌と国学を学んだ。 明治 7 年、博多滞在中に旧薩摩藩士・鮫島高朗を知り、その紹介で旧薩摩藩士・桐野利秋のもとに身を寄 せる。 明治 10 年、恩人であった小池詳敬が死去し、その遺族 6 人を京都の親戚に送り届ける。帰路に、父母妹 を探しながら北陸方面より帰京。 明治 11 年、山岡鉄舟の推薦で清水次郎長(侠客、博徒)に預けられる。 明治 12 年、父母妹を探しながら旅回りの写真師となるために、山岡鉄舟を保証人として写真師・江崎礼二の門下となる。(画家・後姓田芳柳の勧めとも言われるが不詳) 小田原で写真店を開業し、伊豆、東海地方などを回るが父母妹の手がかりは無く、清水次郎長の養子とな り、山本五郎、鉄眉と号を改める。 明治 14 年、小田原の写真館を廃業。 明治 17 年、現在の清水次郎長伝説の基となる「東海遊侠伝」を刊行。 清水次郎長の経営する富士山裾野の開墾事業の監督を務めるなど尽力したが、事業不振により閉鎖。 清水次郎長の養子を辞し、天田に復した。 また、山岡鉄舟の世話で有栖川宮に奉職。 明治 19 年、大阪内外新報社に入社、山岡鉄舟の紹介で京都林丘寺の由利滴水禅師で参禅をはじめた。 明治 20 年、出家し、鉄眼と称する。 明治 21 年、山岡鉄舟が他界、京都相国寺で追善大法会を開いた。 明治 25 年、京都清水産寧坂に草庵が完成し移る。この庵を愚庵と名付け、自らも愚庵と号した。 明治 26 年、西国巡礼に出発、和歌と維新の内戦で死んだ人々の菩提をとむらう行脚の生活に入り、『巡礼 日記』を執筆し、出版。 明治 29 年、正岡子規を病床に見舞っている。落合直亮らに学んで漢詩や和歌を嗜み、万葉集を取り入れ た歌風は正岡子規らに大きな影響を与えた。 明治 33 年、品川弥二郎(長州藩士、内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官な どを歴任。勲一等子爵)と伏見桃山で観梅をしている。 明治 33 年、新庵を同所に作る。 (この庵は昭和に入り、福島県いわき市に荻原井泉水らにより復元されている) 明治 37 年、死去。墓所は京都市右京区嵯峨北堀町の鹿王院。

生年/出身: 1854(嘉永 7 年とも) 福島(いわき市平)

開業年: 1879

開業地、主要拠点: 静岡(小田原)

師匠: 江崎 礼二

弟子: