
諱は本木永久、幼名は本木作之助、本木元吉。本木昌三、本木笑三、本木咲三の表記もある。長崎会所請払役・馬田又次右衛門の二男。家系図には「馬田作之助」と記載されている。はじめ長崎新大工町乙名の本木家の親戚・北島三弥太(馬田又次右衛門の実兄)の仮養子となる。のち本木家の養子となった。本木家は長崎平戸のポルトガル通詞の家系。初代は本木庄太夫(栄久)、二代目・本木仁太夫(良固)、三代目・本木仁太夫(良永=養子)、四代目・本木庄左衛門(正栄)、五代目・本木昌左衛門(久美)、六代目が本木昌造(永久=養子)。 本木正栄は、英和辞典、仏和辞典を作っている。 のち本木小太郎が七代目となる。
天保 5 年、本木昌造は本木昌左衛門のもとへ養子に出される。 本木家へ行ったのちオランダ語を学び、西洋技術に関心を寄せた。 万延元年、飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命される。またイギリスより蒸気船を買い入れ、船長となった。 文久元年、江戸などへ航海。 元治元年、江戸などへ航海。 明治 2 年、長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立。 明治 2 年、フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷を学んだ。 明治 3 年、武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立。 明治 3 年、小幡正蔵、酒井三蔵を大阪に派遣し支所を設立。(のち大阪活版所) 明治 5 年、小幡正蔵、酒井三蔵を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立(後の築地活版)。 明治 5 年、学制が施行される明治 7 年頃に新街新塾を閉鎖させられた。 明治 6 年、死去。内田九一撮影の肖像写真が長崎諏訪神社に残されている。本木昌造の異母弟には、松田雅典(国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉(外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
生年/出身: 1824 長崎(新新石灰町)
開業年:
開業地、主要拠点: 長崎
師匠:
弟子: