【古写真の調査後売却】跡見学園設立時の記念撮影

跡見学園開校時の写真
跡見学園創立時明治
跡見学園女子大学明治時代

◆1段目

・錦織千代子
子爵錦織家と思われる。

◆2段目

・万里小路千代子
子爵、裏松良光の妻
父:皇太后宮大夫 万里小路博房

・姉小路良子
姉小路公前の娘にして、勤王家姉小路公知の妹。
明治10年10月、宮内省皇后職に入り、
同11年12月権掌侍に、21年11月掌侍に任じられる。
以来、聖上皇后両陛下の恩寵を賜り、日清戦役の際、
皇后宮の広島行啓にも供奉。
明治35年1月権典侍に進み、大正3年8月従三位に叙せられ、
同4年勲四等に叙し寳冠章を賜う。同年12月に退官。
才気煥発で知られ、国文を渡邊重石丸に、漢文を蒲生重章に、
和歌を伊達千廣に、書画を跡見花蹊に学ぶ。
安政3年(1856)4月4日~大正15年(1926)5月
〔学統〕?渡邊重石丸 蒲生重章伊達千廣 跡見花蹊

・跡見花蹊
日本の教育者、日本画家、書家。学校法人跡見学園の創設者。甥は浦和画家の跡見泰。
摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。
本名は滝野。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、
12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。
17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。
頼山陽門下の宮原節庵に漢籍、詩文、書を学ぶ。
画は円山応立・中島来章から円山派(写生派)を、
日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、
それぞれを生かした画風を作り上げた。
その後1859年(安政6年)に大坂に戻り、父が大坂・中之島(現在の大阪市北区)
に開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。

・跡見千代滝
跡見花蹊の姉

・園池●●
子爵園池家と思われる。

◆3段目

・川口直子
1866-1939?勘解由小路直子(川口武定室)
川口 武定は、日本の官僚、陸軍及び海軍軍人。
海軍主計総監(のちの主計中将)、貴族院議員。男爵。

・波多野元子(波多野華涯)
日本画家。大阪の人。名はモト。
東京跡見女学校在学中に跡見花渓に学び、のち滝和亭に南画を学ぶ。
岡山市に住してより有香社を主宰し、南宋文人画を普及した。
昭和19年(1944)歿、82才。

・不明(風子??いと子?)

・細川熊江
藩主細川家の出身と思われる。
跡見花蹊伝著書に銘記あるが、詳細不明。

◆4段目

・嵯峨仲子
慶応1(1865)年5月10日~? 江戸時代末期・明治期の女性。
天誅組の盟主であった父中山忠光の死後、
各地を転々。のち、公爵嵯峨公勝と結婚。
中山忠光の娘(毛利元徳の養女)の南加(仲子)。

・綾小路長子
庭田重直伯爵の妻
父:子爵綾小路有良

・烏丸操子
烏丸光亨伯爵の妻
勘解由小路操子(父:子爵 勘解由小路資生)

・堀田伴子か?
堀田正倫伯爵夫人
継室:伴子(万里小路通房の娘)
堀田 正倫(ほった まさとも)は、江戸時代末期の大名。
明治時代の伯爵。
下総佐倉藩第6代(最後)の藩主。正俊系堀田家10代。
万里小路通房は、幕末の公家、明治期の官僚・政治家。
貴族院伯爵議員。の子

・跡見李子
万里小路家から跡見花蹊養女へ
万里小路通房の娘・李子を養女にし、跡見女学校の二代目校長とした。
1868-1956?明治-昭和時代の教育家。明治元年10月18日生まれ。万里小路(までのこうじ)通房の次女。
明治25年跡見花蹊(かけい)の養女となり,跡見女学校の経営や生徒の教育に従事,大正2年学監,8年校長となる。
昭和26年跡見学園初代理事長。昭和31年12月17日死去。88歳。京都出身。跡見女学校卒。号は花州。

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