【古写真の調査後売却】明治33年・仏骨(仏舎利)奉迎使節団の現地撮影写真

明治33年・仏骨奉迎使節団

◆明治33年 仏骨(仏舎利)奉迎使節団
タイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成。
稲垣公使は、1900 年(明治 33 年)2 月 12 日に日本仏教界各宗派管長宛に長文の書簡を 送り、早期に仏骨奉迎を実施するよう勧告した。1900 年(明治 33 年)4 月 18 日から 3 日間、京 都の妙心寺において各宗派会議を開き、奉迎の件について協議した。その結果、本願寺派、 大谷派、日蓮宗、曹洞宗、浄土宗、真言宗、臨済宗の7宗派から各 1 名奉迎使を派遣する ことが決定した。しかし、真言、日蓮、浄土の3宗は、都合により派遣を辞退した。奉迎使は、大谷派の大谷光演、本願寺派の藤島了穏、臨済宗の前田誠節、曹洞宗の日置黙仙の 4師に確定した。奉迎使は互選の上、大谷光演を正使に推挙した。各派は、それぞれ随行 者を選定した。大谷派から特派布教使学師・文学博士 南條文雄、暹羅公使館付訳官 山 本安太郎を含む 11 名、他の宗派は各 1 名の計 14名が随行することになった。南條文雄は、 イギリスに 8 年間留学し、『大明三蔵聖教目録』を刊行するなど、高徳博学で英語に堪能 な人物であり、人選にあたって稲垣が付けた条件を十分に満たしていた。 奉迎使節団一行は、32 宗派管長の委任状を携帯し、同年 5 月 23 日に神戸発博多丸で出 帆した。 6 月 15 日に仏骨授受が挙行された。奉迎使一行は、午後 5 時に式場のワットポー寺に到 着した。勅使であるバスカラウォン(パーサコーラウォン)文部大臣は、タイ語と英語の 2 通の式辞を述べた。

◆日置黙仙
日置黙仙は号を維室と称し、弘化4年1月23日、日置治吉の次男として鳥取県東伯郡北条町に生まれました。15歳の時に、因幡の中興寺 黙中禅師に就いて得度し、19歳で石川県にある天徳院の高僧 奕堂禅師の下で修行に励み やがて明治7年 数え年28歳で氷上町御油 円通寺の第40世住職となります 円通寺は丹波に於ける曹洞宗の中本山で、当時、近隣約60ヶ寺を統括していましたが明治時代の廃仏毀釈運動のあおりを受けて、建物も荒廃し寺領だった山林もそのほとんどを失っていました。それでも黙仙が晋山した当時には修行に励む若い僧侶たちも50名くらいがおられたそうで、供物やお布施で生活をしのぎながら「衣食の中に道心なく、道心の中に衣食あり」と説き、民衆や修行僧を指導しました。そして茅葺き屋根だった本堂を瓦葺に改修するなどの復興事業を手がけ、見事にこれを完成させます。そん手腕を買われた黙仙は、明治25年の秋 今度は静岡県袋井市にある可睡斉の住職として招かれ、ここでも荒廃していた寺の復興に努め、またこの頃からインドやタイといった東南アジアの国々へも出かけて精力的に仏教行事に参加し、大正4年にはアメリカのサンフランシスコで行われた「世界佛教徒大会」に曹洞宗の代表として参加するなどして、その名声を博し、翌年の大正5年には福井県にある大本山、永平寺の第66世管長となり「明鑑道機禅師」の勅号を賜りました。永平寺管長となってからも全国各地を廻って教化に務め、大正9年9月20日に74歳で遷化されました。

◆大谷光演
(おおたに こうえん、1875年(明治8年)2月27日 – 1943年(昭和18年)2月6日)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧、俳人、画家。法名は「彰如」(しょうにょ)。俳号は「句仏」。東本願寺第二十三代法主[1]。真宗大谷派管長。伯爵。妻は、三条実美の三女・章子。 1900年まで南条文雄・村上専精・井上円了らについて修学。また幸野楳嶺や竹内栖鳳に日本画を学び、さらに正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いだ。後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれる。 1901年、札幌には宗教系の学校が北星女学校しか無い事を知り、同地での仏教系女学校を思い立つが資金調達に難航し、開設するには至らなかった。1902年(明治35年)に北海道庁立札幌高等女学校が開設されたため、札幌初の非キリスト教系女学校の開設には至らなかったが、4年後の1906年(明治39年)4月に、札幌初の仏教系女学校である北海女学校の開校に漕ぎつけた。

◆稲垣満次郎
(いながき まんじろう、1861年10月29日(文久元年9月26日) – 1908年(明治41年)11月25日)は明治時代の日本の外交官。著書で南進論を唱えたことで知られる。 肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年(明治15年)、東京大学文学部に入学。翌年東京大学明治十六年事件に巻き込まれて、英国ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに留学、ジョン・ロバート・シーリーに師事する。大学では日本人クラブを設立し、英国紳士のマナーを研究した。また、大学の理事会を説得し、日本人の入学試験からギリシャ語を免除させた。
卒業後、学習院・高等商業学校の嘱託教授となる。1891年に創立された東邦協会で、外務省に入りシャム国に赴任するまで幹事長を務めた。1897年(明治30年)3月、在シャム国弁理公使、1903年(明治36年)同特命全権公使。1907年(明治40年)には在スペイン特命全権公使となったが翌年に任地マドリードで病死した。
墓は長崎県平戸市にある。また、シャム公使時代には発掘された釈迦の遺骨の一部を日本に贈与してもらえるよう国王に嘆願し、受け入れられた。そのためこの仏舎利を収めた名古屋市の覚王山日泰寺にも、稲垣の墓が設けられている。

◆皆川廣量(著作者)
(みながわ ひろかず)
 明治4年~昭和8年(1871~1933)実業家。松山堀之内で士族皆川広生の三男に生まれた。東京神田専修学校を中退して貿易商社大倉組に入り大阪支社外国掛,35年中国の天津支店長に抜擢された。日露戦争時中国にあって軍に尽した功によって勲六等に叙せられた。大正2年中外石油アフファルト会社社長となり,東京建物会社・東京機械製作所のほか10数社の社長・役員を兼ねて実業界に重きをなした。郷里松山の教育機関に援助を惜しまず,済美高等女学校の設立助成や松山夜間中学(現松山城南高校)への資金調達をした。陸軍大将白川義則と親しく,その伝記出版に尽力した。昭和8年5月15日, 62歳で没した。

◆藤島了穏
1852-1918 明治-大正時代の僧。
嘉永(かえい)5年8月15日生まれ。浄土真宗本願寺派。明治15年フランスに留学し,義浄の「南海寄帰内法伝」をフランス語訳。のち西本願寺の執行をつとめ,43年勧学となった。大正7年11月12日死去。67歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。西本願寺西山教授校卒。号は胆岳。

◆前田誠節
臨済宗妙心寺派の代表としてタイ使節団に入る。仏舎利奉迎の中核団体である大菩提会(帝国仏教会)の副会長。

◆バスカラオングセピヤパー
タイの文部大臣、最初の国使。プラヤー・パーサコーラ ウォン

◆ワットポー
タイの首都バンコクのプラナコーン区にある、バンコクで最も歴史が古いとされている寺院。◇正式名称は「ワットプラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム=ラーチャウォーラマハーウィハーン」。全長50m弱の金箔で覆われた涅槃仏(ねはんぶつ)(寝釈迦仏)があることから、「涅槃寺」、あるいは「涅槃仏寺」とも呼ばれている。寺院の建物は中国とタイ文化の混合様式。本尊は金箔が施されたブロンズの仏像で、その台座にはラーマ1世の遺骨が納められている。ここはタイ初の大学が置かれた寺院で、タイ医学の伝統を継承するタイマッサージ学校が残っている。

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