
祖父は長崎漢画派の絵師・山本若麟。父は山本若麟の息子で門人の上野若瑞 。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。 上野家の祖は上野英智といい、佐賀鍋島家に仕えていた。文禄・慶長の役に鍋島直茂に従軍し、戦功があったが、陣没したという。
名は上野常足。画人としての号は上野若龍。文政 5 年、長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだ。天保 10 年、上野姓に戻った。 御用時計師として幸野俊之丞とも名乗っている。 上野家は、代々長崎の商家で時計や薬品の製造・販売を業としていた。家紋は桔梗の二引。武雄領主鍋島茂義の、貿易港長崎での買い物帳「長崎方控」にも名前が登場する。広瀬淡窓(私塾・咸宜園)に漢学、蘭学を学び科学者として天文や、チリ、化学を研究し、鋳金や鍛金、火薬などを製造。 時計師、硝医師の製造などを業として長崎奉行の用命を受ける。 天保年間、荘園の製造を計画し、薩摩藩からの援助で長崎・中島川のほとりに精錬所を設立。オランダ商館にも出入りを許される。 天保 14 年、長崎に届いたダゲレオタイプ写真機を目にする。 この時に記録したとされる写真機の寸法を付したスケッチが現存する。 嘉永元年、ダゲレオタイプを入手。これが日本最初の写真機伝来とされる。 島津斉彬の手に渡り、薩摩藩における写真術の研究を進展させることになった。 嘉永 4 年、死去。 上野彦馬、上野幸馬は息子。上野彦馬の門人・竹下佳治の父(打橋半雨)は親友であったという。
生年/出身: (寛政 2 年 ) 長崎(銀屋町)
開業年:
開業地、主要拠点: 長崎
師匠:
弟子: