
◆盛岡藩士 一條基緒
一條基緒は天保三年一條友弥基定の嫡子として生れた。通称友治のち友次郎。安政二年父の隠居に伴って家督を相続。家禄十駄四人扶持、時に二十四歳。嘉永元年部屋住で小納戸、同五年奥勘定奉行、安政二年家督の後免。文久年間尾去沢銅山山詰兼廻銅支配人となり、同三年江戸勤番。明治元年小納戸。二年会計官(大蔵省の前身)鉱山司權判事に登用される。同年小坂、尾去沢、大葛、真金の各鉱山を出張。同年実名基緒を名乗りとす。この年鉱山少佑に昇進。三年佐渡県に出向して製鉱所(洋式製錬所)の取建工事に関与。同年鉱山大佑、次いで工部省設置により転属して鉱山寮十二等出仕、四年十一等出仕、次いで鉱山大属、五年工部省七等出仕、この歳鉱山師長ゴッドフレーと共に長崎県高島炭坑の官工準備に向けて長崎県に出張。六年従六位鉱山權助に叙任、鉱山寮主計課長となる。八年阿仁鉱山寮支庁在勤。十年官制改革により鉱山寮廃寮、鉱山局設置を機に退官。明治八年の官員録によれば、その部下に旧盛岡藩士大島高致、川口秀俊、下間継旦、飯岡政徳、高橋重中、山内長次郎、小山田寛哉、田鎖綱記、阿部知清、長沢行蔵が、また記載はないが小田島由義(のち秋田県鹿角郡長ほか歴任)などがあり、当時、基緒の上司となっていた鉱山寮助大島高任を含めて、その多くは基緒の紹介により任用された人達と伝えられている。その一人、田鎖綱記は後に官営大葛鉱山に勤務の後、速記術を学び、日本における速記術の開拓者となったことは周知の通りである。十三年岡田平蔵の経営する鉱業会社に招聘され尾去沢支局長となり、翌十四年同社辞職。十五年南部家家令、二十六年病により家令を辞職して盛岡に帰郷、二十七年盛岡で死去した。享年六十二歳。「明治政府に仕えた南部藩士・一條基緒伝」外
◆盛岡藩士 出渕勝応
次男は、出渕勝次
出渕勝次は1878年(明治11年)7月25日,第一大区一小区仁王村(現:盛岡市梨木町)にて旧盛岡藩士出渕勝応,ちうの次男として生まれた。盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後,東京高等商業学校(現:一橋大学)に進んだ。1902年(明治35年),外務省に入省し,京城,上海,ベルリン在勤をへて,1914年(大正3年),中国公使館一等書記官として北京に赴く。第一次世界大戦後,日本の「二十一か条の要求」に対し,中国の反日運動が激化,そのため日本はワシントン会議で非難を浴び,山東半島の利権を返還することとなる。この時出渕は山東還付委員として,青島と山東鉄道の返還処理にあたった。1923年(大正12年),本省に戻りアジア局長,翌年には外務次官となる。1928年(昭和3年),駐米大使としてワシントンに赴任した出渕は,満州事変や上海事変をはさむ5年の間,「排日移民法」の修正運動の推進など日米関係改善に努めた。軍部の意に背き関係改善を貫いたため,強硬派から強い非難を受けたが,出渕は“若い時に散々悲しい思いをしたから今では大抵の心配事も一夜明ければけろりと忘れてしまう”と語り変わらず振舞った。米国の新聞は“出渕大使は今日日本を支配しつつある軍閥とは全く異なる範疇に属す外交官であり,もし大使がこのまま更迭されるならば,過去4年間における大使の努力は水泡に帰すことになる。今後の日米関係がどうあるべきかを考えるならば大使更迭は断行し難いはずである”と出渕について評価している。1935年(昭和10年),外務省を退官し,翌年貴族院議員となる。1947年(昭和22年)には最初の参議院選挙に当選するが,惜しくもその4カ月後にこの世を去った。
◆盛岡藩士 目時政次郎政房
明治元年支配帳に目時政次郎家がある。「参考諸家系図」は津島弥三郎政秀二弟にして、信直の時に三戸郡目時村を知行地を与えられ、在名により目時氏を称した、目時肥前正朝の支族、目時甚五郎忠昌の三孫目時助之進正広を祖と伝える。父は孫左衛門政勝。一本には甚五郎忠昌の三男ともいい、或いは安政と称したとする説もある。重信の代、延宝五年十月に囲炉裏番に召し出され一人扶持を与えられ、のち御先供を勤めて四両二人扶持(高三十二石)となった。享保三年妻帯をせずに死去。二代目は大島孫助倶康の二男勝之進正宥が継いだ。大島家は祖父の家と同様に御馬医の家柄であった所縁と見られる。「御番割遠近帳」によれば、元文三年に亀五郎様御番と見えるのを初見とし、火之廻、下屋敷御番、御新丸御番を勤めて寛保三年五月病死した。正宥も無妻帯であった。三代目は初代正広の甥・目時安兵衛政通(或政吉)の二男小弥太(のち助之進・弥五兵衛・弥兵衛・助兵衛、新丸番・淡路丸番・新屋敷番など諸々番を勤めた後、配膳当分加、小納戸物書)が寛保三年八月幼少で相続。天明元年病死した。四代目は同年六月に高橋市右衛門二男久助(のち多兵衛・綺、盛岡西根山奉行、下屋敷賄番当分加、修理亮奥使当分、花巻新藏奉行)が相続。事績は文政五年以降未確認。文政六年写本とする支配帳に喜代之丞が散見する。久助同人であろうか。次いで文政十年の時点を下らない支配帳では五代目であろうか助兵衛と替わり、天保十二年支配帳では喜代之丞となり、安政五年改支配帳まで見える。花巻西藏奉行を勤めた。その跡を嗣いだ定次郎は万延元年・文久元年支配帳等に散見する。新藏物書を勤めた。その跡を文久三年十月政次郎政房が相続。慶応元年十一月、高十二石を扶持方に色替せられ、一両二歩砂五分四人扶持となった。明治十一年の士族明細帳には上田与力小路二番屋敷に居住と見える。その跡を政忠─政興と相続。当主政人は盛岡市に在住する。

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◆縁者の目時隆之進
(本名:政朋(まさとも),幼名:健次郎)は1823年(文政6年)6月16日,米内村三ツ割(現:盛岡市三ツ割)にて目時彦一郎の子として生まれる。幼くして父や兄を失った目時は弱冠2歳で家督を継いだ。1868年(慶応4年),楢山佐渡,中嶋源蔵らとともに京都にあった目時は,薩長が中心となった官軍に味方することを支持した。しかし旧幕府側に味方することを決めた楢山を説得することはできず,勤皇の志のままに長州藩邸へと脱走する。目時は東北遊撃軍に参加したが,おりを見ては総督久我道久(こがみちつね)に藩主南部利剛の朝廷への忠誠心の強さをうったえていた。同年の9月,秋田の戦役に破れた盛岡藩は,薩長側からの働きかけにより,早期降伏に功のあった目時を家老とし藩政を託した。しかし同年12月の領地召し上げと藩主の上京謹慎の命令は,盛岡藩士たちの怒りの矛先を,異例の出世を遂げた目時の身に向けさせた。政府と藩士達の間に挟まれ苦悩し続けた目時だったが,藩士達の怒りを解くことはできず,ついに麻布藩邸の一室に幽閉される。取調べのため盛岡に護送される途中の黒沢尻(現北上市)にて,目時は己の赤心を示すべく切腹する。明治2年2月8日夜半のことだった。日頃より勤皇の志の厚い目時だったが,俳句を良くし月窓という号を持つ文化人でもあった。目時隆之進の孫が、初代森岡市長・目時敬之。
◆鈴木の姉
これは、鈴木舎定の姉と思われる。
鈴木舎定は1856年(安政3年)2月,盛岡新築地(現:盛岡市大通三丁目)にて盛岡藩士鈴木舎従の長男として生まれた。幼名は弘太。1871年(明治4年),上京して宣教師カロザースから洗礼を受け,旧幕臣中村政直の私塾同人社に通い,政治や法律など新しい文物について学んだ。187年8(明治11年)6月,舎定は帰盛する。西南戦争が前年に終結したため,不平士族らの政府への不満の捌け口は自由民権運動へと向かっていた。戊辰の役で賊軍となった盛岡藩士たちも自由民権運動へ多数参加し,舎定は岩手県における中心的な存在「求我社」で指導的役割を担(にな)った。また「求我社」の機関紙「盛岡新誌」の主筆として,人々へ自由民権運動への参加を呼びかけている。1881年(明治14年)には『国会手引草』を著し,国会開設のための啓蒙(けいもう)活動を行った。しかし政府による自由民権運動に対する弾圧は徐々に強まっていく。舎定はその状況の打破を企てるが,1884年(明治17年)1月1日,盲腸炎のため周囲に惜しまれつつ急逝した。盛岡市先人記念館で顕彰している作家鈴木彦次郎は舎定の甥にあたる。
◆盛岡藩
(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。
同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。 甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の2家のみである。 ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。