【古写真関連資料】幕末明治の写真師たちと私塾

日本の私塾一覧

◆私塾
江戸時代、教育機関は、「昌平黌」、「藩校」、「郷校」、「教諭所」、「心学舎」、「私塾」、「家塾」、「寺子屋」などがあった。「私塾」は、幕府や藩が設置した教育機関とは異なり、一定の枠にはまらず、塾主の個性と、有志者の自発性を基盤として発展した教育機関。特に、江戸時代後期に活発な活動が見られ、多くの有能な人材を世に送り出している。「私塾」には、咸宜園(大分・廣瀬淡窓)、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、松下村塾(山口・吉田松陰)、適塾(大阪・緒方洪庵)、洗心洞塾(大阪・大塩平八郎)、梅花塾(大阪・篠崎小竹)等があり、世に知られている。また、江戸・京・大坂を中心に、無名ながらも高度な教育内容を誇った個性的な私塾が数多く存在した。

広瀬 淡窓
通称は広瀬寅之助、広瀬求馬。諱は広瀬建。字は広瀬廉卿、広瀬子基。別号は広瀬青渓。 末弟に広瀬旭荘。 豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。 寛政 3 年頃、久留米の浪人・松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだ。 寛政 6 年頃、松下筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失った。 寛政 9 年頃、筑前国の亀井塾に遊学し亀井南冥・ 亀井昭陽父子に師事。寛政 12 年頃、病により退塾し帰郷。 肥後国の医師・倉重湊の勧めで学者・教育者の道を選ぶ。 文化 2 年、豆田町の長福寺の一角を借り、塾を開く。上野 俊之丞上野彦馬もここで学んでいる。後の桂林荘・咸宜園へと発展し、入門者は延べ 4,000 人を超える日本最大級の私塾となった。安政 3 年、死去。大正 4 年、贈正五位。写真術を研究していた時期がある武谷掠亭は月形鷦窠、広瀬淡窓に儒学をんでいる。写真師・森山三郎の妻・狭間櫪の父は狭間畏三(福岡県都郡苅田町)といい、行橋市稗田の私塾・水哉園、咸宜園(広瀬淡窓)で学び、神代帝都考などを出版し、福岡県議員を務めた人物。

上野 俊之丞
祖父は長崎漢画派の絵師・山本若麟。父は山本若麟の息子で門人の上野若瑞 。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。 上野家の祖は上野英智といい、佐賀鍋島家に仕えていた。文禄・慶長の役に鍋島直茂に従軍し、戦功があったが、陣没したという。名は上野常足。画人としての号は上野若龍。文政 5 年、長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだ。天保 10 年、上野姓に戻った。 御用時計師として幸野俊之丞とも名乗っている。 上野家は、代々長崎の商家で時計や薬品の製造・販売を業としていた。家紋は桔梗の二引。武雄領主鍋島茂義の、貿易港長崎での買い物帳「長崎方控」にも名前が登場する。広瀬淡窓(私塾・咸宜園)に漢学、蘭学を学び科学者として天文や、チリ、化学を研究し、鋳金や鍛金、火薬などを製造。 時計師、硝医師の製造などを業として長崎奉行の用命を受ける。 天保年間、荘園の製造を計画し、薩摩藩からの援助で長崎・中島川のほとりに精錬所を設立。オランダ商館にも出入りを許される。 天保 14 年、長崎に届いたダゲレオタイプ写真機を目にする。 この時に記録したとされる写真機の寸法を付したスケッチが現存する。 嘉永元年、ダゲレオタイプを入手。これが日本最初の写真機伝来とされる。 島津斉彬の手に渡り、薩摩藩における写真術の研究を進展させることになった。 嘉永 4 年、死去。 上野彦馬上野幸馬は息子。

梅屋 庄吉
梅谷庄吉、梅谷正人、梅屋 正人の表記もある。本籍地は長崎県下県郡厳原町大字宮谷。父は本田松五郎、母は本田ノイ。明治元年、生まれる。遠い親戚である西浜町川端通り31番戸の貿易商精米所・梅屋吉五郎(梅屋商店)の養子となる。養母は梅屋ノブ。梅屋商店という表記もある。梅屋家は土佐藩の経営する土佐商会の家主でもあった。明治6年、出来鍛治星町八番地の私塾・佐藤塾に入り習字を習う。明治8年、榎津小学校に入学。明治11年、榎津小学校卒業。明治15年、梅屋商店の持船「鶴江丸」に乗り込み、上海に渡る。明治19年、ビニエスペンドル号に乗り、上海からフィリピンを経てハワイに行く計画したが、船火事に遭い長崎に戻る。明治20年、朝鮮半島全体が大飢饉となった際、梅屋商店の米を輸出し一時的に儲けたが、明治26年には米穀相場に失敗し梅屋家には借金が残った。
明治24年、鉱山開発を計画するが失敗。明治24年、香椎トクが、梅屋家の養女となる。明治26年頃、長崎に居られなくなり、中国へ退転。中国福建省アモイ島、東南アジアを転々とした。逃避中、シンガポールで熊本県出身のからゆきさん「中村トメ子」と知り合い、生活を始めた。中村トメ子は上海でイギリス人と暮らしている間に、イギリス人から写真技術を学んでおり、それを梅屋庄吉に教えた。明治26年頃、まず、シンガポールで写真館「梅屋照相館」を開業。上手く行かず明治27年頃、香港へ移り成功を収める。明治27年、香椎トク(梅屋トク)(明治8年生まれ)と結婚。梅屋庄吉は香港で写真館を営み、梅屋トクは梅屋商店を切り盛りした。妻は長崎壱岐勝本浦、士族・香椎岩五郎の次女。香椎家は鉄砲奉行であったという。香椎神社の神官であったとも伝わる。 香椎家には、孫文の支援金が壱岐島のどこかに隠されているという言い伝えが残る。明治27年、養父梅屋吉五郎が76歳で死去。明治28年、英国人医師ジェームス・カントリーの紹介で、中国革命を目指していた孫文と香港で知り合う。中国革命の際、孫文に多額の資金援助をするなど、辛亥革命の成功に寄与している。この頃、中村トメ子は梅屋庄吉に見切りをつけ、別の男性と結婚した。革命への資金援助額は現在の価値で一兆円に及ぶとされている。明治34年の在香港日本人実業家等分布表には梅谷正人と表記があり、「M・MUMEYA」の台紙がある。明治36年、養父養母ともに他界した後、妻・梅屋トクは香港に移り、梅屋庄吉と同居。この頃、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らとフィリピンの独立運動にも関与した。明治37年、香港の梅屋照相館が反乱軍の拠点であると密告され、シンガポールへ脱出。 シンガポールの梅屋照相館で映写機と映画フィルム4巻で映画興行を行い成功した。明治38年、フランス・パテー社の映画を購入して帰国。映画会社・M パテー商会を設立して興行をはじめる。明治42年、撮影所を作り制作に進出。明治43年、白瀬矗(のち陸軍輜重兵中尉)を隊長とする南極探検隊が出発すると撮影を同行させ、記録映像を残した。明治44年、撮影隊を派遣し、辛亥革命の記録映画を制作。明治45年、横田永之助(映画製作者、映画興行師、のち京都商工会議所会頭)らと日本活動写真株式会社(日活)を設立。自らは取締役に就任し、日本映画界の元祖となる。大正元年、孫文は臨時大総統に就任。大正2年、日活取締役を辞任。大正2年、孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命。その後も孫文を支援している。大正4年、孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿大久保百人町の梅屋庄吉自邸で主催した。大正4年、映画会社「M・カシー商会」設立。翌年解散。昭和4年、南京に孫文像を寄贈。 ほか、広州、黄埔、マカオにも孫文像を建立している。宋慶齢(孫文の妻)、新宿中村屋(相馬愛蔵・良夫妻)、柳原白蓮(宮崎龍介、白蓮事件)、星一、ラス・ビハリ・ボース(インド独立運動家)などとも関わっている。晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘に移住。この別荘において孫文らと秘密の会議を行うこともあったという。昭和9年、日中関係悪化の際に、外相・広田弘毅に談判に赴く途中、別荘の最寄駅「三門」(現・千葉県いすみ市日在、外房線)にて急死。2011年、中国政府は、長崎県に孫文・梅屋庄吉・梅屋トク3人の銅像を寄贈。壱岐市に梅屋トクの胸像を寄贈。シンガポール滞在時、 1919年の香港店主の名に佐藤福蔵とあるため、門人と思われる。ほか、大正期の門人に、佐野みさを(神奈川)、末永近次郎(長崎)、松田金三郎(石川)、曾根田峯(東京)などがある。開業地について、資料によると大正9年の時点で当時の香港のクイーンズロード・セントラル8号にあり、大正14年頃にクイーンズロード・セントラル38,40号に移転している。 香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎の写真館も近くにあったが、交流の有無は不明。香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎と同時期に、中川円次山田嘉三郎の2名が香港で写真業を営んでいたというが、詳細は不明。日比谷松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と梅屋庄吉の孫が結婚しており、梅屋庄吉の資料は小坂家に引き継がれた。

遠藤 権四郎
嘉永2年、18歳の時に地元で私塾を開いたという。旅写真師として活動。根岸信五郎の高弟というが不詳。笠原彦三郎は、10代の頃に聞いた遠藤権四郎金井弥一和田久四郎などの成功に影響された。

石光 真清
石光眞清の表記もある。父は熊本藩士・石光真民、母は石光守家。祖父は熊本藩士・石光文平(石光真民の父)。石光真民の弟「石光豁通(野田豁通)」は15歳で同藩勘定方の野田淳平の養子となり、陸軍監督総監(陸軍主計総監)となっている。石光家は熊本藩主細川家の肥後入国時からお供をした家柄で、下級武士であったが、幕末期に100石と記載されている。実学党系士族。父の熊本藩士・石光真民は学問に熱心で、後に妻となる守家の実家の私塾で学び、19歳で塾頭になっている。のち勘定方書記として藩庁に出仕。中小姓格から産物方頭取へ昇進し、財政に大きな余裕を生み、家老の信任を得ている。明治元年、四男として生まれる。幼名は石光忠三、のち石光正三。明治10年、父・石光真民が死去。本山小学校に入学し、当時の学友に徳富蘆花(作家)、鳥居素川(大阪朝日新聞記者)、元田亨一(陸軍中将)、嘉悦敏(陸軍少将、嘉悦氏房の二男)がいた。明治12年、熊本師範附属小学校に転校。明治13年、熊本県立中学校に入学、のち共立学舎に転校。明治16年、陸軍幼年学校に入学。名前を石光真清と改める。明治19年、陸軍士官学校に入学。明治22年、陸軍士官学校卒業(旧11期)。近衛歩兵第2連隊付(少尉)勤務。明治24年、大津事件(ロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)の暗殺未遂事件)に遭遇し、ロシア研究を始める。明治25年、正八位。 明治28年、日清戦争で台湾に出征(中尉)。明治29年、歩兵第9連隊付。ロシア留学を許可される。明治30年、幼年学校教官。第9連隊付(大尉)。明治31年、参謀本部付。明治32年、休職し、私費でロシア帝国(ブラゴヴェシチェンスク)に渡航。ロシア帝国軍人の家庭に寄寓。明治33年、ブラゴヴェシチェンスクで起きたロシアによる中国人(清国人)3000人の虐殺「江東六十四屯アムール川(黒龍江)事件」に遭遇。明治33年、歩兵第九連隊(露國)と、陸軍士官学校第十一期卒業者名簿に記されている。明治33年、任参謀本部付、露国差遣。明治34年、予備役編入。ハルピン(ハルビン)で洗濯屋や写真館を経営。ロシア軍の御用写真師となり、満州の地理や駐留ロシア軍についての情報を集めた。明治37年、日露戦争が開戦し、出征(第二軍司令部副官)。のち遼東守備軍付。のち得利寺兵站司令官・第二軍管理部長。明治39年、関東都督府陸軍部付通訳。召集解除、復員。明治40年、日清通商公司の長春支店長となる。明治41年、会社解散し帰国。明治42年、東京世田谷の三等郵便局長となる。大正6年、ロシア革命が勃発。田中義一参謀本部次長(後の内閣総理大臣)から影響調査を命じられる。関東都督府陸軍部嘱託、アレクセーフスクニ付近に駐在して諜報活動に従事。大正7年、シベリア派遣軍司令部付、アムール政府付。シベリア出兵、ロシア革命の動乱の中で活動。大正8年召集解除。関東軍嘱託。貿易公司破綻。錦州に特務機関設置。大正10年、朝鮮人の満州移住水田開発事業、朝鮮協会設立などに関わる。後備役満期。大正13年、会社を放棄して帰国し、隠棲。昭和17年、死去。没後、息子の石光真人(『東京日日新聞』記者、日本ABC協会専務理事)が手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』を編集し完成させた。 そのうち『城下の人』『曠野の花』は1958年に毎日出版文化賞を受賞し、伝記作家の小島直記、評論家の呉智英などが評価している。熊本駅近くにある木造2階建ての旧居が「石光真清記念館」として保存・公開されている。妻は肥後細川藩士族家で軍人・菊池東籬の長女「菊池辰子」。兄の石光真澄は三井物産社員、恵比寿麦酒支配人。弟の石光真臣は本山小学校でともに学び、のち陸軍中将となった。妹の石光真都は大日本麦酒の元常務取締役橋本卯太郎の妻、政治家橋本龍伍の母。娘の石光菊枝は法学者・東季彦の妻。孫に作家の東文彦。おじに野田豁通(軍人、陸軍監督総監、男爵)、栃原知定(教育者、熊本師範学校教諭・熊本県立中学校長)、いとこに下村孝太郎(化学者、同志社第6代社長、大阪舎密工業(現:大阪ガス)社長)、林田亀太郎(官僚、政治家、衆議院書記官長・衆議院議員)、浮田和民(政治学者、同志社教授・東京専門学校(現:早稲田大学)教授)、甥・橋本龍伍(官僚、政治家、文部大臣・厚生大臣)がいる。

横山 松三郎
別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、函館のロシア領事館の神父・ニコライ(日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者)を通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。 明治 4 年、蜷川式胤(外務省官僚)の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(栃木日光下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。

東條 卯作
東条卯作という表記もある。東条家の祖先は、儒者の東条一堂。東条一堂は名を弘、字は子毅、通称は文蔵といい、上総国埴生郡八幡原村の豪農で、江戸で医業もしていた東条自得の次男として生まれ、皆川淇園に学び、昌平坂学問所(昌平黌)の近く「お玉が池」に私塾を開いた人物。明治45年、東京麹町に写真館を開業。大正天皇の大葬・昭和天皇即位の公式写真をはじめ、エリザベス女王ご夫妻、歴代の総理大臣、衆議院議長、最高裁長官、ライシャワー駐日大使、自決当日の三島由紀夫、英国皇太子ご夫妻など多くの財界人を写している。新宿区四谷1丁目の日本写真会館は東條卯作の土地提供により昭和25年落成した。

木村 熊二
木村熊治とも記載される。父は出石藩儒・桜井石門(桜井一太郎)。次男として生まれる。実兄に内務官僚・桜井勉がいる。8歳で江戸に遊学し、10歳で桜井石門の門人・木村琶山の養子となった。江戸・昌平坂学問所(昌平黌)で佐藤一斎、安積艮斎に学ぶ。そこで知り合った田口卯吉(佐藤一斎の縁戚)と同居。佐藤一斎の曾孫(田口卯吉の異父姉)・田口鐙子(木村鐙子)と結婚したが、軍事に奔走してたため、ほとんど同居はしていなかった。幕府に仕えて徒目付となる。幕臣で洋学者の乙骨太郎乙と親交があったという。戊辰戦争では勝海舟の下で活動したが新政府軍に反抗したことで追及を受けることになる。ただし処罰は免れている。この時期に写真師・下岡蓮杖の弟子となり身を隠した。明治3年、日本脱出のためパスポートは偽名で作り、森有礼が少弁務使として渡米する際、外山正一、名和道一、谷田部良吉、大儀見元一郎らと共に随行。ミシガン州ホーランドのホープ大学の校長を通じてキリスト教を知る。明治5年、洗礼を受ける。明治12年、ホープ大学を卒業。のちデイビッド・マレー夫妻の資金援助を受け、改革派教会系のニューブランズウィック神学校で学んだ。牧師試験に合格し、明治15年に改革派の派遣宣教師として帰国。実兄・桜井勉が居住する文京区西片の1000坪の土地を借り、半分に自宅として西洋館を建設し私塾を開く。生徒に巌本善治がいた。明治16年、東京・新栄教会で第三回全国基督教信徒大親睦会が開催され、大儀見元一郎とともに参加。同年、下谷教会の牧師となった。
妻の木村鐙子も日本一致長老教会(植村正久が創立した横浜バンド系の教会)の下谷教会で婦人会を設立し、キリスト教普及につとめた。明治18年、木村鐙子とともに九段下牛ヶ渕で女子教育の先駆けとなる明治女学校を開校。同校の校長に就任したため米国改革派教会からの資金援助は打ち切られた。明治18年、鎌倉に転居し、西片の邸宅は田口卯吉が借り受けた。明治18年、日本初の本格的女性誌『女学雑誌』の発刊。明治19年、木村鐙子はコレラで急死。明治20年頃、写真師の松浦 栄は牧師・木村熊二によって洗礼を受ける。アメリカ帰りの木村熊二から英語や写真術の初歩を学んだという。明治21年、海老名弾正の司式で伊東華子と再婚。伊東華子のスキャンダルに巻き込まれ、女学校の校長職を退いた。明治21年、頌栄女子学校の校長になる。なお、妻の伊東華子は結局愛人と出奔し、明治29年に離婚している。伊東華子は島崎藤村『旧主人』に登場するお綾のモデルとされ、同作に描かれた事件(若い歯科医との姦通)が離婚の原因だったと伝えられる。明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治24年、高輪台教会の牧師を辞職。明治25年、自由民権家の早川権弥の誘いで長野県南佐久郡野沢村に移住。明治26年、私塾・小諸義塾を創設。明治32年、小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村、丸山晩霞等を招き教師として勤務。明治29年、東儀隆子(雅楽家・東儀鉄笛の妹、フェリス和英女学校出身)と再婚。明治39年、小諸義塾閉校。長野市に移住し、牧師として活動した。明治42年、明治女学校閉校。大正6年、に東京へ戻る。昭和2年芝区白金三光町死去。墓地は谷中墓地。最初の妻との長男・木村祐吉は明治女学院教諭。次男は東儀隆子との子。なお、田口卯吉は明治23年、鈴木經勲と南島商会に参加し、天佑丸のミクロネシア貿易巡航に同行している。

◆写真師・森山國蔵
森山國蔵は、長崎で上野彦馬に写真術を学んだ。 明治9年、小倉宝町で初の写真館・森山写真館を開業。息子の森山菊太郎も上野彦馬のもとで写真術を学び、弟・森山三郎(三男)と共に跡を継いだ。森山三郎はのちに独立を志し、森山写真館の近くにあった日本バプテスト連盟小倉キリスト教会のアメリカ人宣教師・メイナルドから情報を得て、明治34年、単身渡米し写真技術修行をしている。渡米後はリチャード・ウィガムの写真館で働いていたという。森山三郎の妻は狭間櫪といい、神戸女学院を出ている。狭間櫪の父は狭間畏三(福岡県都郡苅田町)といい、行橋市稗田の私塾・水哉園、咸宜園(広瀬淡窓)で学び、神代帝都考などを出版し、福岡県議員を務めた人物。狭間家は代々大庄屋であったという。森山三郎と狭間櫪の間に生まれた森山久は著名なジャズトランペッターであり、森山久の娘が歌手の森山良子である。