【古写真の調査後売却】明治29年・静岡島田 大井川大洪水(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

静岡島田・大井川大洪水鶏卵紙写真明治29年
鶏卵紙静岡島田・大井川大洪水明治29年s

◆大井川
静岡県を流れる河川。一級水系大井川の本流。1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止となった。川越人夫は島田に350人、金谷に350人が常時いた。大井川の川越人夫は雲助とは違い、藩府直参の下級官吏であったため、安定した職業でもあった。

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大井川の治水については、信玄堤に代表される武田氏の「甲州流治水工法」のひとつである牛枠類(「聖牛」の名で呼ばれる)が知られており、これ以外にも、「出し」・「川倉」といった水制が各所で設けられた。ただしそれでも水害は後を絶たず、大井川下流の流域住民は舟形に屋敷を盛土して洪水に対処する「舟形屋敷」を建築した。現在でも焼津市大井川や藤枝市、島田市などに舟形屋敷が残存している。明治時代に入ると架橋が許され各所に橋が架けられるようになった。そのうち特に著名なのが蓬莱橋である。この橋は1879年(明治12年)に架橋され、木造歩道橋としては世界一の長さを誇り、ギネスブックにも掲載されている。現在でもこの記録は破られていない。1898年(明治31年)に「河川施工規則」が施行されると大井川は内務省による直轄工事対象の河川になった。同年より高水敷の治水整備が内務省直轄事業として行われ、1902年(明治35年)には一応の完成を見た。