
出羽国天童藩2代藩主。通称は織田八百八、兵部。官位は従五位下・伊勢守、兵部少輔、左近将監。
初代藩主・織田信美の長男。母は戸田忠翰の四女・戸田朝子。
正室は相馬益胤の娘。
継室は相馬益胤の娘・相馬糸子。
子女は6男9女で、四男は織田信敏、六男は織田寿重丸(織田信敏の養子)
天保7年、父・織田信美の死去により家督を相続。天保7年、12代将軍・徳川家慶に御目見。天保7年、従五位下伊勢守に叙任。後に兵部少輔、左近将監に改める。
幕末期、藩財政が悪化し、紅花の専売制や年貢の前納化を施行。
文久2年、祖父・織田信浮、父・織田信美の遺志に基づき、小幡藩時代のような国主格待遇への復帰をはかる家格上昇を幕府に嘆願したが、叶わなかった。
嘉永4年、幕府は出羽置賜郡内の領地4640石余を収公、村山郡内(21ヵ村で2万3153石余)に替地を与える。
安政6年、江戸在留中に写真術を学んでおり、家臣(天童藩医・高梨尚賢)を撮影している。
慶応3年、朝廷から上洛を命じられたが、自身ではなく、家老を名代として上洛させることを願った。
慶応4年、天童藩士・津田勘解由らを上洛させた。しかし、新政府は再度織田信学本人の上洛を命じた。しかし病気を理由に上洛に応じず、嫡男・織田信敏を派遣。
慶応4年、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられるが、天童藩士・吉田大八を名代とした。
慶応4年、隠居し、織田信敏に家督を譲る。まだ織田信敏は若年であり、隠居後も実際の運営は重臣との合議で行われたようである。
慶応4年、新政府に従わなかった庄内藩が天童藩を攻撃。織田信学と家族らは仙台藩領へ逃亡した。
明治3年、東京に移り、明治天皇に拝謁。
明治24年、死去。
生年/出身: 1819
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