【古写真の調査後売却】歌人・柳原白蓮

柳原白蓮古写真肖像美人女性

別人(同年代の詩人)との調査結果もあったが大学の調査により比定した。

◆柳原 白蓮
大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。

父は柳原前光伯爵。母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘[注釈 1]奥津りょう。東京に生まれた。

大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅は燁子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべく燁子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年(明治21年)、燁子3歳の時に病死している。

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初子を母と定められて間もなく、当時の華族の慣習として品川の種物問屋を営む家に里子に出され、乳母の増山くにと里親家族の愛情の元、下町の自然豊かな環境で育てられる。学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、初子に華族の娘としてしつけられる。1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学する。

1894年(明治27年)、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となり、小学校も転校となる。北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が養子となっていたが、隨光が女中に男子(資武・すけたけ)を生ませたことから養子関係が解消となり、その代わりに燁子を資武の妻にする条件での養子縁組であった。同年に父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継ぐ。